はじめに
Occult stories are unusual in works of Hideo Azuma. "Kyuketsuki- Chan"(1973-1974)
and "MAJYONIA EVE"(1983-1984) are principal, in my opinion.
このカテゴリでは、吾妻マンガにおいてやや異色であろう分野、オカルトもの(?)について紹介させて戴こうと思う。すぐ頭に浮かぶシリーズは2つある。『吸血鬼ちゃん』(1973-1974)と『魔ジョニアいぶ』(1983-1984)がそれだ。ここでは記事を分け、まず前者についてお話ししたい。
"吸血鬼"という題材はこのほかの吾妻マンガにも何度か登場しているのだが、そのなかの珍品には『吸パイ鬼』(1973)なんて読みきりパロディもある。僕は、ここに「ふむ?」と思わしめる理解の手がかりがあるような気がしている。つまりは、"血を吸う"という行為の根底には何か、性に関する情念が潜んでいるのではないのだろうかと。
まだ赤ん坊であった頃、殆ど誰もが母乳を与えられて育ってきたことだろう。生きるうえで何の心配も無いに等しく、本当に安心していられるのが母乳を吸う時間だったのではあるまいか。人は成長して、その幸福だった時間をやがて失う。男がいくつになっても女性のオッパイに憧れるとすればそれは、男である自分には無いものへの憧憬と共に、幸福だった乳児の頃への懐かしさもあるのかも知れない。
性において男の立場を考えてみると、射出はあっても「受ける(もらう)」要素が無い(精神面の充実は別として、物理的には)。そのへんで、満たされない何かの不足を感じ、男は「吸いたがる」のでは……などと考えたらこじつけになってしまうだろうか。
主人公の「吸血鬼ちゃん」は、第1話で中華料理屋の娘である由美子に恋をし、こんな台詞を言っている。「行って……血を吸ってやらねば……!! ……それから ほかのところも 吸ってやらねば!!」。また『ふたりと5人』の主人公であるおさむが「愛する人のからだから出るものはなんでもオイシイ」とつぶやいている回もある(「オー! ロウ人形!の巻」)。彼らの言動にはギャグマンガの主人公としての誇張があるとはいえ、こうした「吸いたがり」願望は(程度に個人差があるとしても)別に珍しくはないのではという気がする(例えばディープキスの時に相手の舌を吸う男女は世界中にいくらでも存在するだろう)。"吸血鬼"というキャラクターは(本来の伝説からいつしか分離し)そういった欲望を具現化し結晶させたひとつの寓意になっていったのではと、精密な論拠は無いけれど、僕には思える。
相手の体液を吸わないと(もらわないと)生きていけない(満たされない)というこのキャラクターは常に"渇(かわ)き"をおぼえており、その苦しみからの救いを求めていつもさまよっている。こうした事をさらに拡大していって考えるに、吸血鬼というものは、他者から愛(血)をもらわないと生きてゆけない、人間の本質的な孤独をとらえた題材になっているのかも知れない。
決して満たされることなく毎度さんざんな目に遭っている主人公『吸血鬼ちゃん』の物語を読んでいて、笑いの中にどこか「ほろ苦さ」が感じられるのは、たぶん気のせいではないのだろうなと僕は思う。