* I'll introduce you 2 series, "Nemuta-kun" and "Chokkin" at this page. These are comics for boys. Characters play an active rule with a school as their stage.
はじめに
このカテゴリでは、学校を舞台とした正統的(?)な少年マンガとして長期連載された作品から2つ、『ネムタくん』と『チョッキン』を紹介させて戴こうと思う。まずは前者、『ネムタくん』について。
(下の画像は、朝日ソノラマ版単行本1~3巻のカバー。最初に出た単行本は講談社コミックス(1978年)なのだけれど、全話が収録されてはいないので、こちらをテキストに用いたいと思います。)
小学館の『少年サンデー』に欄外マンガでデビュー(1969年)した後、新人時代の吾妻ひでおは秋田書店の出版物をホームグラウンドに活躍していた。しかし記録によれば比較的早い時期に講談社でも執筆している(『愛の花』(1970年)など)。その後『テレビマガジン』での連載(『好き!すき!!魔女先生』(1971~72年)ほか)を経て、『月刊少年マガジン』で連載を持つに至る。それがこの『ネムタくん』(1976~79年)で、『失踪日記』p.139の言及によれば、限界を超えた仕事量をこなしていた時期に執筆していたようだ。
考えてみると少し不思議な気もする。僕の個人的な記憶がもし正しければ、この頃の講談社マンガ雑誌はどちらかと言えばやや硬派なつくりになっていて、特に週刊少年マガジンなどでは1960年代後半から妙に前衛的な作品や政治的な社会問題をさえ扱った重い作品をしばしば載せたり、ギャグマンガ以外は基本的に全て「原作つき」にしたりと、いささか堅苦しい編集方針をとっていた印象があるからだ。つまりは、吾妻マンガがうまくなじむ土ではなかったのでは? という先入観が拭えないのである。
加えて、当の吾妻マンガである『ネムタくん』が、これまたちょっと難しい。乱暴に言うと、主人公にこれといった特性が見当たらない。「一発でわかる特徴」を持っていないとでも言うべきか。
少し比較してみよう。『ふたりと5人』の主人公・おさむは、恋にのぼせるうち「異性こそ全て」という人物像になっている。また、このカテゴリで後に紹介させていただく『チョッキン』の主人公は「カネこそ生きがい」という特徴がある。いずれも人物のタイプとして非常に分かりやすい。
『ネムタくん』には、これが無いような気がする。
しかし……。
実はそこに彼、ネムタくんの個性があるのではないか? 今になって読み返すと、なんだかそう思えてきた。
「時代が人をつくり、人が時代をつくる」とかとよく言われるけれど、『ネムタくん』が連載されていた1970年代後半の若者像は、その前後の時代のそれとはまた微妙に違ったのである。60年代後半で学生の殆ど誰もが巻き込まれた(らしい)政治的な学生運動は70年代に入ってほぼ消滅状態になり、1975年にベトナム戦争が一応終結するとそれが一因となってか政治的な危機感は学生達の日常から薄れていった。そのような嵐の後に訪れた虚無感、歴史の中で自分達の使命が何なのかを見失ったような心情が、『ネムタくん』の主人公らに合致しているような気が、僕はする。
大げさかも知れないけれどもし仮に、1960年代末ころから起きた性解放運動の落とし胤(だね)的なキャラクターが『ふたりと5人』の主人公おさむであり、1970年代後半の日本経済の停滞なり安定成長なりの影響を受けたのが『チョッキン』だったとすれば、そうした世情の"谷間"の時期に青春の只中にいた学生達の姿を、『ネムタくん』は微妙に反映していたのでは……などと思うのだ。
主人公のネムタ(そして悪友であるイトーと三蔵を加えた3人組)は、言うなれば一種の不良学生である。しかしケンカに明け暮れるとかいったタイプの不良ではない。女の子もカネも好きだが、といってそれ一筋に生きている様子もない。なんとも無軌道で享楽(きょうらく)的な彼らはこれといって人生の目標を持ってはいないかのようだ。そして、遊びほうけているようでいて、当人たち自身も気付かぬうちにそれを模索しているような気がする。
ネムタたち3人組は、べつに学生生活を嫌がっているワケではないし、母校を憎み嫌っているとかというワケでもない(こうした点については最終回のオチに決定的な証拠があると思う)。
そうではなくてむしろ逆に、ネムタたち3人組は誰よりも、青春の日々をこよなく愛し、得られる限りのものを得、なし得る限りの事を成し遂げようと必死になっていると言えるのではないか? それが過ぎて制御を失い、勉強する時間も惜しいとばかりに自分たちのやりたい事ばかりに熱中してしまっているので、世間のモノサシはネムタたちを「不良」と測定するのではないか?
しかしどんなに無駄が多く、傍目に馬鹿げて下らなく見えようと、そんな事が出来るのも若ければこそなのではないか? 必死であればこそ徹底的になれるのではないか? 他人や世間から呆(あき)れられようと、青春も人生もその人のものなのだ。どうして世間の、他人の標準に全てを合わせねばならないだろうか?
むろんここに描かれているのは、うんと誇張された喜劇ではある。けれど自由にのびのびと生きる事、それこそがあるべき本質なのではないか?
名前の通り(?)「眠た」そうな目で、何かこう世の中を半信半疑で見ているようなネムタくんの姿には、主張と問いかけが実は込められているような感じがするのだけれど、どうだろう?
精一杯生きようじゃないか、楽しく陽気に! と……。