I'll introduce you Hideo Azuma's some series that were run in a magazine for adults. "Animal company" is one of comparatively early works.
はじめに
このカテゴリでは、青年誌で発表された作品のうち比較的に初期のものとして、『アニマル・カンパニー』と『人間失格』の2つをそれぞれ単行本から紹介したい(画像はそれらの表紙)。「比較的に初期」という点は、ここで二重の意味を持つ。作者にとって青年誌での執筆が少しずつ始まった頃であるという事と同時に、発表の舞台である"青年マンガ雑誌"がこの頃はまだ黎明(れいめい)期にあったのではと考えられそうだからだ。
青年誌全般の沿革について精密な記述ができるほどの資料や知識はおよそ僕には無いのだけれど、たとえば秋田書店「プレイコミック」は昭和43(1968)年6月号(最初は月刊誌だった)が創刊号のようで、そこへ吾妻マンガが初登場するのは1973年秋、この『アニマル・カンパニー』によってであったらしい。今でこそ青年マンガ雑誌は多くの種類が存在するものの、1970年前後にはまだその数も多くはなく、作者にとっても編集部にとっても(そしてもしかすると読者にとってさえも)「青年誌とは何なのか」という命題の答えは曖昧で、模索が続いていたのではないだろうか……? そういうある種の混沌は、作者を困惑させると同時に、実験的な試みへの挑戦意欲をも抱かせたのか、少年少女向け作品とはまた違った要素がいろいろ見出せる結果になっているようだ。
さて、最初にここで取り上げる『アニマル・カンパニー』なのだけれど、これは、けだし吾妻マンガ作品群の中にあって最も絵が荒れているものの一つで、その点もっとも不名誉な記録にもなっているかも知れない。私的な感想を述べる事が許されるなら、もし、ずっとこの調子の絵柄だったら果たして僕は吾妻ファンになったかどうか、自分でも分からない……。が、それでも時おり美女だけはいやに丁寧に描かれていたりして、「ややっ!?」と驚かされる。
(この辺ばかりは画像が鮮明でないと話が通じなさそうに思えるので、1葉だけ参考までに表示しておこう。)
『アニマル・カンパニー』では主人公の名前が「股ズレ」(!)などとなってるし、もうこうなってくるとヤケクソで名付けてヤケクソで描いてたんじゃあないのか!? と本気で思ってしまうのだけれど、なぜか作画の細かい美女がちょこっと出てきたりするからややこしい。察するにこれってやはり、計算されたうえでの演出としてこういう殴り描き的な絵柄にした側面もかなりあったのではないか?
あまりにも端正な画風でやられると、ギャグマンガは面白おかしくなくなってしまいそうな気がする(わざとそういう手法をとる場合もあるだろうけれど)。いい加減で、馬鹿丸出しで、下らなくて、最高にどうでもいいような事を大騒ぎしていて、およそマトモじゃない判断と行動を本気でやっていて、普通なら考えもしないような奇妙奇天烈な決定をして大失敗をして大恥かいて、誰からも褒められも尊敬されもせず、絶望的にどうしようもないほどダメな、カッコ悪くてなさけない、貧乏くさくてケチでいぎたなくて、トンマで間抜けで、えっちいことばっかしやってて、全然何一つ長所が無さそうな、そういうヤツが登場してこそ、ギャグマンガは面白く楽しい場合が多いのではないかと思える。そしてそういうマンガの為には、綺麗な絵というのは殆どの場合、あまり適さないのじゃないだろうか。
そうした点、荒れまくっているような絵柄も、この作品に関して言えば、これはこれでちゃんと合っているように僕は感じる。アマチュアとしての乏しい経験(そんなものが何かの役に立つかどうか分からないけれど)からふりかえって考えるに、自分を実際よりも利口に見せようとしたり、実力以上に絵が上手だと思われたいとか願っていたり、何かそういった虚栄心が強いと、ギャグマンガは描けないような気がする(自分がまさにそういうちっぽけなアマチュアだったのでこう思うんですが……)。馬鹿を演じるのが喜劇役者であるとすれば、雑な下手くそを演じられるのがギャグマンガ家なのかも知れない。
「ひでェ絵だねー!」「バカだねぇ!」「くだらね~!」と読者が感じて笑えるもの、それがギャグマンガのあるべき姿なのかも知れない。読後にちょっと微笑させられる、という上品なギャグマンガも無論有意義だろう。けれど、ここではその反対をわざと試みた作者の成果を、見ることができるように僕は感じたのだけれど、さて、あなたの御感想は……?