産直あづまマガジン
"Sanchoku Azuma Magazine (meaning : Farm-fresh Azuma Magazine)"
This is a series of book which was published at author's own expense. (It seems the reason why this series is named "Farm-fresh".) We can read sequels or new stories of his famous heroines, new works of short stories, and author's diary.
「産直」という、何だか野菜(!)みたいな題名からうかがえるように、大手出版社を介さず、アズママガジン社から上梓(じょうし)されたもの。ここではその第3号(2003年7月発行)を紹介させて頂こうと思う。上の画像はその表紙で、下の画像が裏表紙、B5週刊誌サイズ、56ページから成っている。
『
ななこSOS』や『
スクラップ学園』といった、商業誌で長期連載されたシリーズの新作の他、複数の読み切り短編が収録されている。3号の内容は以下の通り。
・
前説(1ページ)
・
ななこSOS ACT59 ななこアイスを売る
*この作品はのち、ハヤカワコミック文庫に収録された。そちらとは数字が1つずれているのだが、『ななこ&ひでおのイラストーリー』がシリーズの1話として計上されているゆえだろう。
・
ななこ写真集
(ななこの肖像画4葉)
アル中探偵モット
"Aru-chuh-tantei Mott (meaning : Mott the alcoholic detective)"
Mott is a middle age man who looks not cool. He is always only half conscious so he gets drunk. But he is a talented detective in fact ...
*現代のアメリカが舞台とおぼしき探偵もので、1ページ、8コマで完結するお話が2本。常に意識もうろうとしている、さえない風貌(ふうぼう)のオッサンが主人公なのだが、そんな彼の活躍とはいったい?
辺土(リンボ)
"Limbo"
A young man roams around in desolate land. He seems feel uneasy as if he is not alive. Then a beautiful little girl welcomes him, takes a role of a guide upon herself ...
1人の青年が、夢とも現実ともつかない荒涼たる世界をさ迷う。「なんだか 生きている気がしない」と考える彼の前に少女が現れた。彼女は言う、「よく来たね あたしが案内するよ」
そして……。
*「リンボ」というのはローマ・カトリックにある概念で、あの世(或いはその一歩手前)、天国でも地獄でもない空間を指す言葉であるらしい。描かれる奇妙な光景は、吾妻マンガならではの表現だろう。
MELU(める)
"MELU"
An omnibus of a stray cat lives through human world freely.
どうも野良猫であるらしい主人公は、人間たちがひしめく世間を自由気ままに渡り歩く。その珍妙な行動を描くオムニバス。
スクラップ学園 シークレット・フィルムの巻
"Scrap Gakuen : secret film (meaning : The secret movie)"
Myah-chan the heroine calls to a vendor to stop, and gets a baked sweet potato from him. But he is a strange vendor ...
無敵のヒロイン・ミャアちゃんと友人たちの3人組は、街の路上で、石焼イモの売り声を耳にする。ところが呼び止めてみたらこれが変なイモ屋で、しかも食べてみたら……。
*トビラに「没」と書かれているのだが、何において「没」だったのか不明。ともあれ、"ななこ"の品行方正とは真逆で、誰のものにもならない彼女が元気で活躍するのを読めるのはすごくうれしい。
・
ひでお日記(6ページ)
*髭(ひげ)を生やした作者の日常。(作品の連載されていた雑誌が消滅したために)「中断した「街を歩く」は「夜を歩く」と合せて一冊にしようと考えてます」という発言があり、まだこの時点では、後に書籍として『失踪日記』が世に出るなどとは全く知る由も無かったらしい事が分かる。
産直アズママガジン増刊 ふらふらひでお絵日記
(2010年11月発行 アズママガジン社)
"Fura-fura Hideo e-nikki (meaning : The unsteady Hideo picture diary)"
* This book records author's diary (March 12, 2008 - May 31, 2008) that had opened at his official Website.
「久々に自費出版本出してみました~、毎月ネットで更新しているホームページの絵日記'08.3.12~5.31までを掲載してます」
と、「まえせつ」にあるとおりの内容なのだが、加筆されている箇所もたくさんある。単行本
『うつうつひでお日記 その後』から続くもの、として位置づけられるだろう。
B5版全56ページの内、本文前後の真っ白な2ページ以外は絵がびっしり収録されていて、紙質も良く、「画集」というか、ほぼ実寸に近いであろう「原画の複製集」と考えてもうれしい1冊。表紙と裏表紙はツヤツヤの厚紙にフルカラーで美麗、豪華だ。最初に同人誌即売会で頒布されたようだが、2011年1月23日からは公式サイトでの通販も行われている(定価1000円、送料240円)。
日常のなかに出くわしたちょっぴり奇妙な出来事や、うら哀しさとユーモアの混濁した生活記録、いろいろなエンタテインメントへの辛口な評論など、その内容は多岐にわたり、おもしろい絵日記となっている。
そして、それらの記述のあちこちに、これぞ吾妻マンガならでは、美少女たちが姿を見せてくれているのだった。ポロン(
『オリンポスのポロン』)が成長したのかと思えるような娘(月桂冠を頂いている)や、ななこ(
『ななこSOS』)、猫山美亜(
『スクラップ学園』)、みみ(
『便利屋みみちゃん』)、そして様々な新顔のキャラクターも出演しており、中には(「ボーカロイド」として有名な)”初音ミク”風の子までが登場している。
一方、どえらく偏ったコトを平気で記しているくだりもあって、これまた、吾妻マンガならでは。p.31('08.4.26)の「泉谷しげる「突然児」より」なんてのがそれで、これは氏が20歳の時、マニア向け雑誌
『COM』へ(点数がついている事から推すにたぶん1968年に)投稿した9ページのマンガ作品の、冒頭のパロディであるようだ(画像は1979年の雑誌『Peke』のp.53に、縮小され紹介されていたもの)。
地面を掘り起こして突然現れた主人公が、群集を縛り上げてひとまとめにし、ぶん殴って遥か月までぶっ飛ばし片付ける、という侵略テーマ(!?)の作品みたいなのだが、どれほどの人に知られているだろう? 吾妻ひでお自身もギターを弾くようで、音楽にせよマンガにせよとにかく「表現」せずには生きていけないという点で、泉谷しげると吾妻ひでおには共通する因子があるのだろうか。
そしてもちろん、徹底的にSF人間であることもまた、絵と文章の両方で、あちこちにうかがえる。
ぶらぶらひでお絵日記
(角川書店 2012年2月29日初版発行)
"Bura-bura Hideo e-nikki (meaning : The wandering Hideo picture diary)"
* This book records author's diary (June, 2008 - June, 2009). There is a copy on this book, it reads "This is the picture diary that records the most highschool girls, in the whole world (maybe).".
実際には25日ころ店頭に出た。内容は公式サイトでの絵日記、2008年6月から2009年6月分までを、加筆・構成したもので、ほかに『まえがき』3ページ、インタビュー7ページ、『あとがき』4ページが収録されている。
コシオビに「世界一、女子高生がたくさん登場する絵日記です(たぶん)」といった文言があり、担当編集者はこの書籍のセールスポイントをそう認識したらしい(? 巻末のインタビューでも類似の発言がある)。カバーを外すと、なるほどいかにも、という装丁になっているのはこのゆえか。
同じコシオビの裏表紙側には吾妻ひでおによる(?)「私は、自分の日常を記録するためではなく、女子高生を描くためにこの日記を続けているのです」という一言が。
あまつさえ巻末インタビューで、吾妻ひでおは以下のように語る。
『女子高生とそれ以上の年齢の女性との絶対的な違いは、女子高生は真冬でもナマ足がデフォルトであることなんです。だから素人でも「絶対領域」(引用者注:ソックスとスカートの間に見える素肌の部分のこと)をもちうるのは、生涯においてわずか三年間、女子高生である間だけなのです。まさに神聖ナマ足帝国ですよ。』(p.232)
……(絶句)。
ふと考えた。女子高生という画題はひょっとすると、何か「SF」に通ずるところがあるんだろうか???
やめたやめた、もう考えるのやめた! 読者として好き勝手な感想を述べるならこれは、無性に「塗り絵」をして遊びたくなる本だ。以上!
……というワケにもいかない……真面目な発言だって、この本にはあちこち、ちゃんと載っている。「笑いの根本は虚無」(2008年9月18日)だの、「テレビ見て、街をウロウロして、帰ってテレビ見てたら一日が終わった。明日死ぬという宣託が下ってもこんな感じだと思う」(2008年11月8日)だの、「問題は人間はたして誰にも評価されないことを延々やっていけるのかってことだよなー~」(2009年3月13日)だの、「黒目がちな萌絵の女の子の瞳は動物の目だ、そりゃ動物の瞳はかわいい」(2009年5月26日)だの。
こうした分析や主張に「ふむ?」と引き込まれるのはやはり、根っからのマンガ好きな人だけで、ごく普通のまともな読書人たちには、訴えるところが乏しいのかも知れない。
活動する舞台にもよるだろうけれど、思うに、マンガ家としてプロデビューするのが大変である以上に、プロのマンガ家であり続けるのはもっと大変なハズなのだ。職業としてのマンガ家たる人生がどんなものか、それを記した図書というのは、世界一マンガが普及しているのではと見えるこの日本においてさえ、殆ど存在しないのではないか? これは、そうした点で、希少な書籍の一つなはずだと僕は本気で思う(マンガの描き方を教える図書は多いとしても、マンガ家としての人生を伝える図書がどれほど世に存在するだろう?)。
巻末インタビューで作者が、
『女子高生は個人個人で微妙なこだわりや、流行、地域差があって、それを反映しないイラストはどうしても古くさくなってしまうんですよね』(p.234)
と語っているのも、マンガ家生活43年(!)ほどになってなお前線で執筆していればこそだろうと思うのだ。
しかし、カタい事は言うまい。本は、読んで楽しく面白いにかぎる。注文をつけるならば、女子高生が主人公の『スクラップ学園』や『ななこSOS』の新作を(イラストレーションだけじゃなく)、マンガで読みたいものだ。今なお単行本未収録となっているそれらの作品(現在絶版となっている『産直あづまマガジン』のバックナンバーを入手しないと読めない)だけでも、書籍にまとめて出して欲しいと思う。
産直あづまマガジン増刊 ぐだぐだひでお絵日記
(2012年12月発行 アズママガジン社)
"Guda-guda Hideo e-nikki (meaning : The wordy Hideo picture diary)"
* The major publishing company censored author's draft, removed some parts
from it and publishes "
Bura-bura Hideo e-nikki". So that, author has published this book with that parts and others,
at his own expense.
公式サイトに発表された'09.7月~10月の絵日記を収録しており、「前説」にもあるとおり『
ぶらぶらひでお日記』の続き、という位置づけになる書籍。同人誌即売会でお目見えしたが、2013年1月23日からは公式サイトにおいて通信販売もなされている(定価1000円、送料1冊240円)。
表紙に記された文言によれば「アニメ「けいおん」の悪口書いたページは角川に「かんべんして」と言われたのでこの本に載せ(た)」とのこと。
一体ナニが角川をビビらせたか詳しい話は直接読んで戴くとして、吾妻ひでおの主張に”原作が生かされていない”点への失望があるのが、僕は気になった。
吾妻ひでお自身、
『ななこSOS』がTVアニメ化されるに際して、その”原作が生かされていない”落胆(原作者として無理からぬ事だろう)を味わわされているらしいからだ。そうした記憶がアニメ版「けいおん!」への評価にかぶった部分もあるのでは、という気がするのだけれど、どうなんだろう?
マンガの原作がアニメ化されるにあたっての難しい諸問題は、それだけを論じても分厚い本が1冊出来上がるのではないかと思える。よってここでは割愛させて戴きたい。
本文には「有名な漫画家のUさんが失踪したとかで、いろんなマスコミからインタビューの申し込み来る、全部断った」(p.38)といった記述もあるが、これは『クレヨンしんちゃん』作者の事件を指しているらしい。
「前説」3ページ、「あとがき」2ページが書き下ろしで追加されているのだが、それによると、かつてはパソコンと無縁だったのに、Twitterを使うようになった話などの他、いよいよ『失踪日記』の続編たる「アル中病棟」原稿が仕上げに突入したらしい。そして「日記より まんが描きたくなった」、「高校生の頃読んでたような古臭いSF描きたい」という発言がある。ファンとして非常に楽しみだ。
あとがき その後の登場人物たち
(描き下ろし 2009年3月5日)
"Atogaki / Sonogo no tohjoh-jinbutsu-tachi (meaning : A postscript
/ Characters, since then)"
* The sequel of characters, how they are getting along.
*題名どおり、作品中の時代からいっきに40年ほどの時間を飛び越して、現在みんながどうしているかを描いている。
努力にもかかわらず、なるようにしかならない世の中。残酷な浮き沈み。何が成功と勝利で、何がそうでないのか分からない様々な人生。
トビラはとりわけ興味深く思った。ひときわ劇的場面といえそうな5つの状況が1コマずつさらりと描かれ、いっきょに並べられている。
ここに、吾妻マンガの強い個性と特色の一面が出ているような気が、僕はした。なぜなら、ここに見られるこういったエピソードこそが、普通のストーリーマンガだったらたぶん「クライマックス」に設定され、独立した5つの物語に仕立て上げられているのではないか、と思えるからだ。
作者たる吾妻ひでおは、そういった正攻法なドラマを描く機会を、なんら惜しむこともなくあっさり見送って、それぞれをたったの1コマ、あまつさえそれを全部ひとまとめにたった1ページで片付けてしまっている。
凡人の読者としてはこの1ページを見、「なんてもったいない事を!?」と仰天させられる。
しかし吾妻ひでおという人は、どうも根本的にそういう漫画家であるらしい。正統的な作劇を否定こそしないにしても、そこに前衛的な可能性はさほど無さそうだとばかりに、興味や熱意を持ってくれないのだ。
これは仕方のない事なのかも知れない。喜怒哀楽で人間を描くドラマはともすれば、月並みな作品にとどまる場合がとても多いのはけだし事実なのだろう。(僕は素人なので正確な予測などできないけれど)出版を商売として計算するならば、そういう凡作の方がむしろ、マンガというものに対して高度な期待や要求はしないであろう大多数の普通の読者からは好まれ、より多くの拍手が得られるのではと思え、惜しい気がする。でも拍手の多寡は、作品の価値に必ずしも正比例はしないのも、たぶん事実だろうと思う。
吾妻ひでおは、拍手喝采よりも、自身の実験の成果を探究してしまわずにはおれない人なのではないか……。
実を言えば僕には、このシリーズの題名がなぜ『地を這う魚(ちをはうさかな)』なのか、よく分からない。作品中に夥しく姿を見せている「魚」たちの正体が何なのか、つかめないのだ。全てが単なる幻想であって実在しない錯覚でしかないのか、それとも何らかの寓意を背負ってこういう姿をとっている存在なのか? 退屈で可能性の無いこの現実世界をせせら笑うかのように、魚や海洋生物や、ありとあらゆる動物、実在しないだろう妖精、はては機械だか何だか得体の知れない連中までが、美もグロテスクも、楽しさも不安も、なにもかもがごちゃ混ぜになり、そして何にも支配されず(重力の影響さえ受けることもなしに)そこいら中を漂い、動き回っている。
現実的な光景を描くことは、ある意味ではそれほど難しくないだろう。しかしそうやって現実をできるだけ正確に模して描く事に、その営為のどこに、「創作」があるだろうか? 大切なのはむしろ、
”自分の頭の中にしか存在しない光景を、絵と言う形で取り出して、誰の目にも見えるよう、鮮やかに表現する事”
なのではないか……?
この作品群は物語とはまた別に、視覚効果の点でそういった主張をしているように、僕は感じた。
かような幻想の充満した世界を描いて見せることができるのはやはり、吾妻ひでおの他に誰もいないだろうと思う。
吾妻ひでおも、ひょっとすると「魚」なのかも知れない。「魚」が水中ではなく陸にいるのは、ふつう、おかしな事である。泳がずに、這っているなら、それも変である。そうだ、常識だの平均だの現実だのを基準に判断するなら、何だか変な事をしている……でも「誰がそんなルールを決めた?」とばかりに、あり得ないような事を自由にやっている。自由な、あるいは常に自由でありたいと願い、どこでも動き回っている。実はそういう、「魚」なのかも……。
地を這う魚 ひでおの青春日記 (角川文庫)
(平成23(2011)年5月25日初版発行)
"Chi o hau sakana / Hideo no seishun nikki (meaning : )"
* This book is a pocket edition of "
Chi o hau sakana / Hideo no seishun nikki". The author explains a little, his expression and a style of painting,
in a preface and a postscript. And, this book has an afterword by Yoshikazu
Yasuhiko the famous animator.
これは
単行本『地を這う魚』の文庫版だが、以下の作品を新たに収録している。
・
まえがき (1ページ)
・
文庫版あとがき (4ページ)
・
人類抹殺作戦 (16ページ)
・
アヅマさんとボク (2ページ)
『
まえがき』では、なぜ「化け物だらけの世界」で描いたか? を、『
文庫版あとがき』では、なぜ「女の子の絵」が変わってきているか? を、それぞれ作者が、ちょこっと理由説明している(後者には、本編だとホットパンツらしき服装でいかにも当時らしい感じだった「妖精ちゃん」が、今時ふうの装束に着替えて再登場)。
『
人類抹殺作戦』は、これが初めての単行本収録となるようで、掲載誌を入手して読むのが難しい作品であっただけにたいへん貴重だ。初出誌についての解説に、「この別冊付録は宇宙ものの特集で、表紙がアポロ十一号の月面着陸の写真だった」とある(p.206)けれど、より正確に言うと、「SF」の特集であり(宇宙と関係ない記事や作品も複数収録されている)、月面着陸の写真が載っているのは表紙をめくったP.2~3の見開き部分のようである。とはいえ、同誌の編集後記には「宇宙世紀の夜明け。科学が、わたしたちの生活にあたえる影響は、ますます多くなっていくと思います」とあって(p.204)、解説の理解はけだし的を得ているだろう。
『
アヅマさんとボク』は、吾妻ひでおと同じ北海道の出身で、しかも年齢はわずか2年とちょっとの違いという、安彦良和によるマンガ(文章ではなくマンガになっているのはたぶん、珍しいのではないか?)。
それにしても、何ゆえに、「魚」なの? ……という謎については、残念ながら作者がこれをまだ明かしていないようだ。あるいは吾妻ひでお本人でさえ、その理由が分からないのかも知れない。心理学だと、魚は男性やその性器を象徴する場合があるとか、小耳にはさんだ事がある。また、人が何かペットを飼っている場合、常に新しいものを欲しているタイプの人は魚を飼うケースが多いとか聞いた事もある。どうしてそういう解釈になるのか知らないのだけれど、前衛的な実験を好む吾妻ひでおにとって、やはり「魚」は相応しいというべきなのだろうか。
失踪日記2 アル中病棟
(イースト・プレス 2013年10月10日第1刷発行)
のっけから脱線するが、変な本である。
発売前に予約しておいて入手したのだが、奥付を見たら「2013年10月15日第 2 刷発行とある。まあこうした日付は実際のそれと合致しないのが常であるけれど(僕の所へ本が届いたのは10月6日)、奥付を鵜呑みにするなら、初刷から5日で増刷した計算になる。
「凄いな、そんなに売れているのか」と驚き、これは実にめでたい、と吾妻ファンの端くれとしてうれしく思った。しかし……。
写植をヘマこいたのか? と思うようなページが何箇所かある。本を開いたとき左下の欄外になる位置へ時々、各章のサブタイトルが入っているのだけれど、余白ではなく、タチキリを超えて絵が描かれている部分へこれを貼ったページがある(p.11、133、145)。何だいこれあ……? ひょっとして初刷で何か失敗を発見して即座に回収し、増刷になったのか? などと邪推した。
しかしインターネットで調べてみると、この本の初刷はちゃんと市場に流通しているらしい(実物未確認)。ほう?
とすると、これはすごい。
初刷の発行部数がどれ程の数字だったのか知る由も無いけれど、もしかしたらこの『失踪日記2 アル中病棟』こそは、現在までに出版された吾妻マンガ単行本のうち最も多く売れた本、となるのかも知れない……(などと、なかば「商売」の視点で考えるのは、よろしくないであろうか)。
さて。
それほどの速さで売れている本なのだとすれば、内容の紹介や、感想もまた、おびただしい人数の読者によってたぶん、既に書かれているだろうと思う。そこへ今さら僕ごときが駄文を書いても……。説明は簡単に済ませましょう。
説明:
作者がアル中治療で入院した期間(1998年12月26日~)のうち、1999年1月下旬以降から4月5日に退院するまでの経験を記したマンガ。
以上です……。
(付記:本書で何度か言及のある「オブジェ」(p.33、156、224など)は、東京・中野の「まんだらけ」で、いくつかが「AZUMA BOX」として小箱に収められ、販売されているようだ(2013年12月現在)。価格は15,750~31,500円ほどで、(吾妻ひでおの手作り作品に間違いない事を示す)保証書が付いている。)
(付記2:日本精神神経学会の指針(2014年5月28日公表)によれば、いわゆる「アル中」ないし本書で用いられている「アルコール依存症」は、「アルコール使用障害」という名称が適切とされる。)
(注:以下、ただの読後感想)
なにしろセミ・ドキュメンタリーだろうから「あらすじ」を紹介するというのも変かなあ? と思うので、一個人の読後感想を作文してみます。
まるっきりの私事ですけれど僕が「無気力プロ」に出入して何度か吾妻ひでお先生にお会い出来ていたのは1977年から約4年間、とても短いです。だから先生について知っている事などあまりにも少ないのですが、強く印象に残っている点のひとつは、先生の、人並み外れて穏やかなお人柄なのでした。
「もしも吾妻先生が怒ったり怒鳴ったりするような事態が本当にあり得るとしたら、そりゃ数十年に一度有るか無いかの、極めて稀有(けう)で異常な場合であるに違いないな」
そう僕は感じ、今現在でもそのように思っているのですけれど、それだけに僕が『失踪日記2 アル中病棟』を読んで最も驚いたのは(ここが、みんなと少し違うかも知れないけれど)、入院中には先生の堪忍袋の緒が切れた時があるというくだりだったのです(p.183~、p.251~など)。
そこには結論として(?)「やっぱり人間キレる時はキレとくもんだな」とありますけれど(p.186)、どうかなぁ……。一般論ではなさそうな気がする。およそ怒る事など皆無であろうと思える人が大爆発するからこそ、出しゃばりで自己を盲信しているような人物でさえもが驚き、事の重大さに気付いて、その態度を改めるに至ったんじゃないでしょうか? わりとつまらない事でも腹を立ててしまう僕らがそういう態度に出ても事態が好転する可能性って低いんじゃないかしらね? 自分の望みを押し通そうとして恫喝(どうかつ)の戦術に出ているに過ぎないと判断され、逆に怒鳴り返されるのが関の山なんじゃなかろうかと……。とどのつまり、こうした挿話こそは、吾妻先生のけた外れに穏やかなお人柄を証明しているのでは、と僕は感じるんですよ。
だもんで最初は、こうしたくだり、「そんな事あるはずがない」と、どうにも信じられなかったのですけれどね。本を読むにつれ、「これは、よほど病棟での経験が過酷なものだったという証拠なのかも知れないなあ」と考えました。
そもそも、「刑務所じゃないんだ 俺は出たい時にはいつでも出られる」(p.87)とはいったものの、外出等に制限のある一種の軟禁状態が続くのは、やはり精神的につらそうです。
加えて作者は閉所恐怖症であるらしいのだから(p.174)、屋外へのドアが閉まったままで、窓さえもちゃんと開けられない、そういう建物の中に入れられてしまうというのは、さながら拷問のようであったのではと思えます(脱線しますけど僕もこの閉所恐怖症の傾向があるらしく、4人乗り小型飛行機に乗った時以来それを自覚していたので、その、まるで「生き埋め」にでもされてしまったみたいに感じて息が詰まる精神的苦痛を、少しは想像できました)。
そのうえ、入院すれば他人との共同生活を強いられるのですから、対人関係のストレスもある事でしょう。これは娑婆(シャバ)で暮らす僕らでさえ、近所付き合いや職場で、多かれ少なかれ強いられているかも知れません。しかし近所や職場なら、苦手な人物と顔を合わせないで済む時間や日もあります。入院生活にそれは無く、毎日100%の確率で会ってしまい、あまつさえ同じ部屋で寝起きしなければならぬなどという事態さえ発生する場合がある。嫌な人物の顔や姿を毎日必ず見なければならず、しかも同じ空間へ一緒に閉じ込められるというのは、大変な苦痛になるのではないでしょうか。
で……。これらの点は、けだし入院患者にのみ課される桎梏(しっこく)でしょう。勤務している、病院スタッフに、たぶんこういった苦痛はさほど、ありますまい(勤務時間さえ終われば後は自由でしょうからね)。
ところがどっこい、気になる事には、とげとげしい態度のナースが数名いたりする(p.64、90)。そりゃあ、そういったナースはどこの病院にも存在し、珍しくはない、ひとつの性格タイプであるかも知れません。もともと短気でちょっとサドい人だとか。或いは、過労で苛立っているのと、「女はキツい態度を示さなくてはナメられてしまって秩序が保てない」と考えているんでしょうかね。が、興味深くもここでは、男性である看護長までが、患者たちへの回答書に愚痴のようなことを書いてしまい、猛烈な抗議を受けて謝罪するといった失敗をしでかしている(p.179)。このへんからするとアル中病棟というのは、患者のみならず病院側の人たちにも多大なストレスがかかる場所なのでは? などと思えてきます。
なにしろ病院とはいっても、身体の疾患のみを持つ、ごく普通の患者たちを収容している訳ではないらしく、アルコール中毒と同時に認知症(2005年までは痴呆症と呼ばれていた)を併発しているのでは? と思える人も一緒のようだし(p.58、118など)。
加えて、患者たちの顔ぶれにはえらくクセがある。面会に来た吾妻夫人がその雰囲気に怯えて逃げ出し(p.123)、それっきり面会に来てもらえなかった、という位なのだから、やはり「アル中病棟」というものはきっと、ただならぬ環境になっているのでしょう。
吾妻夫人のこの直感は果たして正しかったようで、病棟には、女性にとって身の危険を及ぼしかねないような性体験を持っているらしい者たちが含まれていたり(p.260)、酒のみならず違法薬物の中毒でもあるのでは? と思える人物が居たりする(p.138)、と、後になって著者は知り、驚いていますしね。単なる「大酒飲み」などと言う表現には、とても納まりきらないでしょ、こうした人たちは……?
「退院したくない」と語る人も患者の中にはあったようだけれども(p.127)、あれやこれやの諸条件ゆえ、入院せずにすむなら居たくないと考える患者のほうがやはり多そう(p.11など)なのは、うなづける気がします。
こうした、病棟内の環境が一因なのかどうかは分からないですけれど、「退院しても1年後の断酒継続率はわずか20%」だとある(p.279)。治療の成功率が半分にも満たない(!)というこうした数値は、もしこれが商売か何かであったなら「失敗」と評価され、撤退もしくは徹底的なテコ入れが決断されていそうに僕には思えます。しかしそうなってはいないわけで、これは、アルコール依存症の治療がいかに困難であるか、そしてその方法論ではいまだに模索が続いているらしい事を裏付けているかのように感じました。
この、模索という点では、病院での治療プログラムの内容だけでなく、退院後の患者を支援する「自助グループ」も同様らしい。それは「AA」と「断酒会」に大別されるようだけれど(p.97)、後者には「全日本断酒連盟」に所属するものと、そうでないものがあるのだとか(p.207)。
なんという厄介なことでしょう。いったい、希望を持てる「確か」な何かは、存在するんでしょうか? 著者は独白します、「酒無しでこの辛い現実にどうやって耐えていくんだ?」と(p.283)。しかり、不安や苛立ちや悲しみの皆無な、誰もが幸福に生きられ、「耐える」必要などない世界が、1年後には実現するとかというのでもない限り、どうすれば良いのでしょう? そして飛躍でないとすれば、その辛さの元凶なのではと思えるのは、この人の世にうごめく無数の、奇怪で恐ろしい「人間」達なのではあるまいか? と見えてきます。
とはいえアル中病棟での日々にあっては、人間と言うものの不思議さをも垣間見させられる。対人関係であれやこれやとカドを立てる厄介な女性患者(p.122)が、作者にふと親切にしてくれたり(p.130)。優しいところのある男が(p.27)、えらく物騒な過去を持っているらしいと後で分かったり(p.260)。
醜さと美しさの、相反し矛盾する2面の奇妙な共存。それが人間と言う生物の本質であり、人の世の本質でもあるのでしょうか。
著者は本書の冒頭で語っています。
「アルコール依存症はどうしたら回復するのか(中略)自分が病気であることを自覚し 気長に付き合っていくこと 他に生きがいを見つけるよう努力してみることでしょうかね」(p.4)と。
これってアル中の治療のみならず、人の世で生きてゆかねばならぬ僕らの人生そのものについても当てはまる、普遍性を持つ指針なのでは……?
たしか、和製の絵本の古典的な作品として評価を得ているであろう『ぐりとぐら』について、誰かが新聞でこんな事を言っているのを読んだ記憶があるんですよ、いわく、「良い本は、地下水のようにじわじわと売れ続け、読まれ続ける」と。
『失踪日記2 アル中病棟』が爆発的にヒットしているなら無論それは大いに喜ばしい。けど、一過性の大騒ぎに終わらず、「じわじわと」読まれ続けて欲しいと僕は願い、またそうあって然るべきではないか? と思うのです。
なお、作者のアルコール依存症について記された書籍としては他に、
『実録! あるこーる白書』が存在します。
狂想曲 美少女コレクション 1969-2013
(河出書房新社 2013年10月30日初版)
手元に配達されたのは10月27日だった。サイズはおよそ260 × 187 mm、堅表紙の装丁で128ページ、ずっしり重い。
題名に「1969-2013」とあるのだが、これは作者のデビューから現在までを網羅するという編集意図を示したもののようで、「内容」を説明したわけではないらしい。というのは収録されている絵で最も初期のそれと思われるのは「
ふたりと5人」(1974年)単行本カバーの原画で(p.48-49)、それより前に描かれた絵は見当たらないからだ。
(カバーを外した状態)
この点は残念であり、個人的には恨めしく思う。比較的初期の作品である
「エイト・ビート」(1971)や「きまぐれ悟空」(1972)が、いつも必ず除外される。
しかたないと言えば、しかたないのかも知れない。「美少女」は吾妻マンガの世界に殆ど最初から存在していたとはいえ、彼女達が少年マンガという舞台で主役並みの活躍をするまでになるには数年の時を待たねばならず、その結果、連載中にほぼ単身での肖像が描かれる事も皆無に近かっただろうからだ。ましてやカラーでのそれなど、望むべくもあるまい……。1980年代になってリメイク的にちょこっと描かれた「メチルちゃん」の肖像などは存在し、ここにも収録されているのではあるけれど(p.67、ちなみに
書籍『マジカルランドの王女たち』では、同じ絵のキャプションが少し異なり(同書p.32)、右上が「色っぷる」、右下は「猫山美亜」となっている)。
(カバーを外した状態)
そういった個人的な不満はさておき。
紙質と印刷はやはり、とても良いと思う。僕が真っ先に気付き驚いたのは、「ピンク」の発色が、これまでに発表されている印刷物でのそれとずいぶん違っている事だった。
最も分かりやすいのは「ポロン」の肖像ではないかと思う。この画集だと(p.52)衣服が珊瑚みたいな薄紅色なのに、これまでの印刷物ではもっと赤みの強い色調だったようなのだ(このサイトの表紙で借用している画像と見比べてみてほしい)。
印刷の段階でわざと色調を変えたのか、インクの発色などに限界があってそうなったのか、事情はわからない。ともあれ、原画をより良く再現した絵を見、その複製を入手したいと望むなら、この本が必要だろうと思う。
描き下ろしや、未発表だった美人画も9葉ほど収録されている。また、単行本初収録であろうものの中には、東京精神科病院協会による展覧会への出品作(p.118-9,
124-5)などもあり、これなどは会場へ行けた人いがい、これまで見る機会も無かったろう。なお「
不思議な木の実」(p.72-73)という作品は、スライドショー形式で、フロッピーディスクを記録媒体として頒布された珍しいものの原画であるようだ。おそらく書籍への収録はこれが最初ではないかと思われ、これまた貴重なはずである。
「あとがき」には作者の言葉と共に、「次の画集はこんな感じです」と記入された、エロティックなSFっぽい(?)カットがある。果たしてこれは本当の予告なのだろうか? それは時がたってみないと分からない……。
そしてこの本には、「
吾妻ひでお原画展」(2013.11.21-25、東京・池袋、2014.3.19-24、福岡)のチラシが入っていた(105 × 148 mm)。
カオスノート
(イーストプレス 2014年9月9日第1刷発行)
カバーをめくると「『カオスノート』一問一答」と題された、以下のような紹介文がある。
Q 新作ですか?
A 8割方、『アル中病棟』の後に描きました。
Q エッセイ漫画ですか?
A 日記風ですが、ナンセンスギャグです。
(中略)
Q こういう幻覚を見ていたとか。
A 完全に創作です。
(後略)
コシオビには、高橋留美子、吉田戦車、東浩紀ら3氏による一言コメントが記されている。
内容は、1コマや2コマ、あるいは数ページで完結(?)している掌編を集めたもの。
あまりにも大雑把な計算ではあるけれど、仮に、1ページで2つずつアイディアが埋め込まれているとしたら、本書は254ページなのでその倍、508ほどの(変な)アイディアがこの1冊に詰まっているという、どえらく高密度な数値になる。
あまつさえ、カバーの裏には「没」になったアイディアが数例、載せられている。こういう(変な)「没」アイディアがどれほどあるのか知らないが、それらも加算したら、さらにとんでもない数値になるのだろう。
……こういう(変な)事をやってのけられる人というのは、ちょっと他にいないのでは……。
作者自画像を別にすれば、この本に、「(創作された、いわゆる普通の)主人公」は出てこない。だから「(全体を貫く、起承転結の)物語」や、「(登場人物たちの絡み合いで発生する)ドラマ」は無いし、更にやや極端な言い方をすれば「(喜怒哀楽の)感情」も無い。
個人の無価値な感想を言うのがもしも許されるなら、それらの(けだし)定石であろう諸要素が、全部わざと捨てられたのを残念にも感じる。
しかしマンガは決して、アニメや映画や小説の代用品ではないはずだ。
表現方法としてのマンガの、前衛的な可能性を実験しまくった、興味深い1冊になっていると思う。
ひみつのひでお日記
(角川書店 2014年9月30日初版)
公式サイトで公開されていた日記マンガを収録した書籍。以下のような台詞が「まえがき」にある。
「この本は自費出版した「
ぐだぐだひでお絵日記」の続きです」「2011年6月までホームページで描いてましたが 疲れちゃったのでやめた」しかし「日記をやめたおかげか描き下ろしの仕事に専念でき」、「「
アル中病棟」やっとアップ 8年かかった」
収録されている日記マンガは全部でおよそ16ヶ月ぶんになる(2009年10月~2010年8月、2011年3月~2011年6月、2014年4月)。このうち、最後のものは2014年4月(から6月)の経験に基づく描き下ろし新作。萩尾望都の出版記念トークショーにゲスト出演した時の裏話も記されているのだけれど、吾妻ひでおが骨の髄までSF人間であることを聴衆に再認識せしめる催しとなったようだ(?)。
巻末には「あとがき」マンガ1ページのほか、Twitter(2014年)での珍発言なども収録してある。
(最高にどうでもいい蛇足だが)僕は、本の題名とカバー画像を最初に見た時、「ひょっとしてこれは、主人公の「ひでお」が魔法の鏡に「ネリマク・マヤコン!」とか呪文をとなえて変身し、「ひみつのヒデ子ちゃん」になって東京都ネリマ区で活躍する魔法少女マンガか?」などと一瞬(そんな事あるわけないのに)妄想した。アホです……。