月刊コミック・マガジン COM 1967年 第9号
(虫プロ商事株式会社 昭和42(1967)年9月1日)
吾妻マンガが掲載されているワケではないのだが、プロデビュー前に加わったという「ぐら・こん北海道支部」について記事があり、北海道支部作品会誌『月刊・ミロ』の表紙写真なども小さいが載っている(p.217)。記事内容は以下のとおり(引用者注:実名など個人情報が記されている部分はイニシャルに置き換えたりしています)。
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「この夏休みを利用して、七月二十八日、北海道支部のK・K支部長はじめ、平均十八歳の若さあふれる六人の会員(引用者注:これが”北風六人衆”だったのではないかと思われる)が遊びかたがた上京。到着したその日に休む間もなく、まっすぐ『COM』編集部を訪問。I S 両記者より今後の方針などのアドバイスを受けた。
六名は、さらに、各まんが家を訪問して八月上旬帰北した。
なお、ぐら・こん北海道支部の住所が左記の通り変更いたしました。
小樽市花園×の×の× K・K」
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同じページには「ぐら・こん支部長募集 まんがマニアのリーダー」という記事がある。「ぐら・こん」とは"GRAND COMPANION"の略であるらしい(p.205)のだが、それがどのような組織であったかが分かるので、こちらも以下に引用させて戴こう。
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「「ぐら・こん」本部では、全国のまんがマニアが、よりスムーズにまんがを勉強していくため、「ぐら・こん」支部を全国に設け、各支部に一名の支部長(任期二年)を置きます。支部長に立候補するには、
①作品一点(まんが、またはイラスト)
②最近制作した同人誌。(肉筆、回覧誌を含む)。
③まんがに関するレポート。(四百字づめ原稿用紙三枚以上)。
④住所、氏名、生年月日、職業、略歴、写真。
⑤いままで、はいっていたまんがグループ名。
⑥支部長立候補としての抱負、動機等を百字以内にまとめる。
以上を「ぐら・こん」本部宛に送ってください 「ぐら・こん」本部では、厳重な選考をおこない、最適と思われる方を各支部から一名選出し、支部長に任命いたします。
なお、東京、関東、北海道の各支部は決定しています。」
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その手前のページ(p.218)には「ギャラリー喫茶 コーヒーと洋菓子 コボタン」の広告がある。僕の記憶が正しければ、無気力プロ発行のコピー新聞である「アリス」(1977年9月11日)に発表された『吾妻ひでお伝!』の最後のコマで、この店が登場していた。上京したものの苦しい日々が続いていた吾妻ひでおはこの店でまんが仲間である旧友(『せーしゅんさんか 武蔵野荘のころ』によれば松久由宇だったらしい?)と偶然出くわし、人生の道が開けたらしい(連載は中断したため詳細は明らかにされずに終わった)。広告に店の住所は書いてないが、簡単な地図はある。それによれば、おそらくこの店は現在の東京都新宿区2丁目に存在したようだ。地図には店の前を鉄道が走っている(店は鉄道線路よりも北東側にある)ように書かれており、これはどうも都電(当時まだ存在した路面電車)であるらしい。11系統(新宿駅前~月島通八丁目)と12系統(新宿駅前~両国駅前)がここを走っていたものと思われる(前者は昭和43(1968)年2月、後者は昭和45(1970)年3月まで運行していた)。この「コボタン」は大変有名であったらしく、インターネット上にも当時を知る人々の証言がいろいろ見つかる。上の画像は、広告にある地図を参考に、現在の東京都新宿区新宿2丁目付近を調べ、「コボタン」が存在したのではないかと思われる位置を示したもの。
単行本『地を這う魚』では、この『コボタン』が何度も登場している(p.9など)。吾妻ひでおの上京が1968年のことなので、店の前を走っていた都電(画像の黄色い路面電車はその模型)を見かけただろうと思えるのだが、『地を這う魚』には描かれていないようだ。ほかの鉄道や交通機関はしばしば出てくるのになぜ? と考えるに、吾妻ひでお(と北風6人衆)は、この「都電」を利用せず、新宿駅から徒歩でここまで来ていたのでは、という気がする(1駅ちょっとなので歩けない距離ではない)。アシスタントしに行くのに、コーラの空瓶を拾って電車賃を工面したというくらいだから(p.85)、金払うより歩いちゃえ、と決めたのではあるまいか? 些細な事柄を推理するようではあるけれど、このへん、いかに貧しかったか、いかに若い体力があったか、といった当時の様子がうかがい知れるように思う。
(付記:『COM』)
ここで、『COM』という雑誌について、少しまとめておこうかと思う。僕に分かっている範囲内でしか書けないので、何かの役に立つかどうかは不明だが……。
基本参考資料としては、
(1)月間Peke 1979年2月号 ”幻の雑誌COM大特集” (*以下、「注1」とする)
(2)月間COMIC AGAIN 1979年5月号 ”COM特集PART2” (*以下、「注2」とする)
を用い、その他に、入手できた現物などをひっくり返しながら書いてみよう。
<1>吾妻マンガとの関係
吾妻ひでおがデビュー前に、読者の立場で関わりを持ち、ほどなくして休刊になったのが『COM』なので、吾妻マンガが掲載された事は1度も無い……と、言いたいところだけれど、実は、『COM』が誌名と編集方針をちょっと変え、『COMコミックス』になってから、1度だけ執筆している(1972年3月号、画像はその表紙)。まずは、その作品を紹介しよう。
映画(卒業)を見てるといくらかおもしろいよ!
*これは「特集・卒業」というコーナー(3月号だったからだろう)に載った見開き2ページの4コマまんが。元ネタは1967年のアメリカ映画『卒業』(The Graduate)らしいのだが、この映画のクライマックスである大変有名な場面を模した状況から、物語の幕が開く。映画とは違い、男(作者の自画像が登場している)はひどい目にばかりあって、なんともお気の毒。台詞は皆無に近く、こうしたパントマイムの手法は『タバコおばけだよ』などにも用いられている。
この作品は、単行本未収録のようだ。
なお、吾妻ひでおは「ぐらこんの座談会にアシスタント時代、出席した事がある(注1 p.39)」そうなのだけれど、これがいつの事だったのかはよく分からない。『COM』には一時期、『まんが風土記』という連載があって(1968年4月号~1969年12月号)、記者がその土地出身のプロ漫画家と共に日本全国へ赴き、その地のマニアたちと座談会を開いていたようなので、もしかするとそれだったのかも知れないが……?
<2>読者としての吾妻ひでお
さて、『逃亡日記』では自身が、
「当時は『COM』買ってドキドキしながら読んでた」
事を語っており(p.115)、『地を這う魚』では仲間たちと一緒によくこの雑誌を読んでいた事がうかがえる場面が出てくる(p.10、36、58など)。1970年前後、マンガに青春を賭けていた若者たちにとって『COM』は必読(?)の雑誌だったようだ(蛇足ですけど、当時に小学生だった僕も、古本屋で発見すると買って読んではおりました)。
吾妻ひでおは電話のインタビューで以下のような発言をしている(注1 p.39)。
「だいたい読んではいましたね。(中略)マニアっぽさってのが魅力で(中略)。一時、COMを破く会というのがあって、COMを破くのが流行りましてね。「もうこんなのは越えたんだ!」とか言ってね。COMがつぶれた頃にはもう熱は醒めていましたけどね。(中略)全部持ってますよ。」
……そういう雑誌であったのだが、その創刊までには、いろいろな事情が存在したらしい。
<3>『COM』創刊
少しさかのぼって1964年8月、手塚治虫の『虫プロ』は、ファンクラブの機関誌として『鉄腕アトムクラブ』を創刊した(注1 p.38)。これは1966年10月まで続いたのだが、購読者へ郵送されていたらしいこれの発行は、虫プロにとって財政的には収益よりも損失をもたらすものになってきた。そこで、『鉄腕アトムクラブ』は休刊、かわりに新雑誌を創刊して12月から全国書店で発売するという変更が実施されたようだ。それが『COM』だったのである(注2 p.19)。『鉄腕アトムクラブ』の最終号にはその予告が載っており、以下のような、手塚治虫の言葉が読める。
「この雑誌で、わたしはほんとうのストーリーまんががどういうものかを読者のみなさんに知ってもらいたいし、一方この雑誌を、新人まんが家の登龍門として役立てたいと思います。」
そしてこの予告の最上段には、
「まんがエリートのためのまんが専門誌」
という文言がある。
『COM』は、そういう雑誌として生まれたのだ。それはちょうど、「貸本漫画」というものが滅亡してゆき、それらによって育った漫画マニアたち、プロ漫画家の予備軍たる人材が日本全国に分散、孤立している時代であったという(注2 p.8)。
<4>『COM』の変遷
とはいえ、『COM』の編集方針は、年月を経るうち少しづつ変化してゆく。そのことは表紙にも微妙な反映があるようだ。
創刊号(1967年1月号、画像は注2のp.7よりその表紙)は手塚治虫『火の鳥』で飾られ、題名の隣には敬礼しているアトムの肖像がある(これは雑誌『鉄腕アトムクラブ』の表紙にあったものと同じ画像が引き続き用いられたように見える)。「「手塚治虫先生の新しいまんがや名作を中心」とする、いわば手塚治虫の個人誌となるはずだった」(注2 p.10)というから、これは当然の装丁といえようか。
しかし、創刊したその翌月の2月号で表紙は永島慎二(?)となり、3月号は石森章太郎(?)、そして同年7月号から長谷川京平によるイラストレーションとなってそのまま続き、とにかく、手塚治虫の絵ではなくなる。あれれ、と思っていたら1968年1月号からは和田誠にバトンタッチして、氏による1コマまんが風のイラストレーションが『COM』の顔になった。
この、和田誠による表紙はしばらくのあいだ続いたのだが、何たることかその最中、1969年1月号以降は、ずっとそれまで表紙にいた鉄腕アトムがその姿を消してしまう。
(上の画像はその1969年、12月号の表紙。この号のp.129には、同時期に虫プロ商事が発行していた『ファニー(増刊号)』=後述 の広告が載っている。)
で……。1970年1月号になると、表紙は和田誠のイラストレーションのままだったが、なぜか文言に変化があって、「まんが界に躍進する本格派まんが月刊誌」となる(「まんがエリートのためのまんが専門誌」という文言が失われた)。画像は1970年4月号の表紙。
このころ、姉妹誌(?)の『ファニー』は「レディのまんが週刊誌」として毎月第2・4金曜日に発行されており、それのまた姉妹誌たる『別冊ファニー』も健在だったことが広告(p.146、下の画像)から分かる。虫プロは映画でも画期的な大人向けアニメ『千夜一夜物語』を完成、公開していたし、その経営危機を感じさせる予兆は、僕ら市井の側から見たとき、何も無くむしろ逆で、順調のように思えた記憶がある。
ところが1971年になると表紙の絵がまた替わり(複数の人が担当したようだ)、キャッチフレーズも同年1月号からは変更されて、「まんが界をリードするユニークなまんが専門誌」となった。
この文言はしかし、同年の途中(7月号?)から、「たのしくて おもしろい きみのための 月刊コミック・マガジン」に替わる。そのうえ表紙を飾る絵は、1コマまんが風のイラストレーションで年が明けたのに、途中から動物のシリーズ(?)みたいになり、11月号では馬と一緒にアメリカインディアン(?)が登場、そして12月号で唐突に松本零士の幻想的な作品へと変わっており、どうにも統一感が無い。編集方針がひどく不安定になり迷走し始めているような感じだ。この1971年には5/6(月)合併特大号というのが出版されていて、その表紙には「今月より内容が新しくなりました!!」と書かれているのだが、この頃から『COM』の苦境が始まっていたのだろうか?
そして1972年1月号はもはや『COM』ではなくなり、『COMコミックス』に生まれ変わって、再出発する事になるのだった。
<5>『COMコミックス』
『COM』から『COMコミックス』への変化は、どうやら営業上の理由によるものであったようだ(?)。当時、『虫プロ』は複数のまんが雑誌を発行していたが、これらはやはり儲かるものではなかったらしく、それによって更に収支は悪化してしまったらしい。少しずつ返せていた借金が、『ファニー』(ハイティーン向け(?)少女まんが誌)、『れお』(幼稚園~小学生向けまんが誌)、『ベストコミック』(主に、一流漫画家たちの作品を再録した雑誌。画像参照)を発行したら、ウン千万の借金が億に跳ね上がり、
「それで売れる雑誌にしましょうって事で出たCOMコミックスってのが青年雑誌」
になった、のだという(注1 p.45)。『ベストコミック』の12・1月合併号(1971-2年をまたいでいる)の裏見返しには、『COMコミックス』創刊号の広告が載っている(下の画像)。
1971年末まで、いろいろ変化はあったにしても、とにかく『COM』は『COM』であり続けたようだ。掲載しているマンガ作品にしても、非常に資料性が高くマニアックな内容の特集記事や読み物にしても、「売れるマンガ(雑誌)」より「すぐれたマンガ(雑誌)」たらんと目指していた観がある。しかしいかに高邁であろうとも理想をばかり追っていたら会社存亡の危機につながる、と結論されたか、それまでの『COM』は、ここでひとまず終わる。『ぐら・こん』などのコーナーは継承されてはいるのだがそのページ数は大幅に減少し、『COMコミックス』の表紙にはもはや、まんが表現の前衛としての理念を感じさせるキャッチフレーズ等は見当たらない。『火の鳥』(と、『ほえろボボ』)は引き続き連載されたのだが、ますます”『COM』らしさ”といったものは失われたように感ぜられる。こうした変化はそれまでCOMを支持してきた読者を愕然とさせ、抗議の手紙がすごかったらしい。だからかどうか、この『COMコミックス』は3(月)号で、以下のような次号予告を出している(p.135、画像がそれ)。
「只今COMは生死にかかわる大手術中です。全快後も今までどおり皆様のよき友としてお付合い願いたいと思います。よろしく・・・・」
この予告にはなぜだか「面会謝絶」という貼り紙も描かれており、あたかも、読者からの意見や要望は受け付けられないかのような印象を与えている。さて、ではその「次号」はどうであったかというと。
上の画像がその表紙だ。なるほど、絵柄も変更されている。で、めくってみると最初に目に飛び込んでくるのが、なんと、ヌード写真のピンナップ(下の画像)なのである。
(最初僕はこれを、何か別の雑誌のものが紛れ込んだのではないか? と疑った。糊がはがれていたし、目次を調べてもこのピンナップについて何らクレジットの記載が無いからだ。しかし冒頭の劇画が始まるのはp.7からで、ここに折込のピンナップがあったのは間違いない。……ヌードとはいっても絵画的な感じの構図で(撮影:林弘史)、モデル(映画女優の大堀早苗)はパンティをはいているから、ずいぶんおとなしいものではある(裏は映画『露出』から、クリスチナ・リンドバーグのヌード)。とはいえ、「マンガ」と「ヌード写真」と、一体何の関係があるのだろう? と考え込んでしまわざるを得なかった。21世紀になって初めてこれを見た僕が唖然としたくらいだから、当時に、それまでの『COM』を支持してきた読者にとっては、大変なショックだったのではないかと思う。)
内容にも大幅な変化がある。前号で休載だった手塚治虫『火の鳥』は載っていないし、「つづく」になっていた『ほえろボボ』(村野守美)は打ち切りなのかこれまた載ってない、あまつさえ『ぐら・こん』も消滅(!)してしまい、読者のお便りを紹介する『コム・コムロビー』さえ無くなって、「COM名作コミックス 火の鳥」の広告も見当たらず、そしてこれらがいったいどういうワケなのか、説明らしきものは一切無いようだ。裏表紙の背に「発行所 虫プロ商事株式会社」の文言があるのを見落としたら、普通一般の読者にはこの雑誌と手塚治虫を結びつけることさえ思いもよらないのではなかったろうか?
こうした変革が営業的にどこまで成功したかは定かでない。結局、この『COMコミックス』もまた終わりを迎え、1973年8月号には『COM』として復刊を果たす事になる。しかし、それが『COM』の最後となった。1973年8月22日、虫プロ商事は倒産したからである。
<6>『COM』の伝説
かような幕切れになってしまったものの、あるいはそれも逆に作用しての結果なのか、『COM』は先駆的ないし前衛的なマンガ雑誌として、歴史にその名を残す事となったようだ。
とはいえ、『COM』の評価については賛否両論あるらしい。漫画家の諸星大二郎(1969年12月号で第十七回月例新人入選作『ジュン子・恐喝』が掲載された)は次のような意見を述べている(注1 p.38)。
「何かスゴイ本だーーみたいな”神話”があるみたいですけれど、それ程のものじゃないんじゃないですか?」
また、『COM』編集部にいた野口勲は以下のように書いている(注2 p.18)。
「大体『COMの神話』なんて言葉は、読者にとってこそふさわしい言い方で、僕を始め当時作り手だった者にとっては、状況はより陰湿で、雑誌作りに意欲を燃やす前に、くだらぬ人間関係に消耗し尽くされてしまうという、なんとも散文的な悪夢の連続だったはずだ。」
ともあれ、明白なのは、『COM』が21世紀となった今でもなお、どこかで誰かにより語られ続けているようなマンガ雑誌だった……という事だろうか。
<7>『ぐら・こん』について
最後に、『COM』1968年5月号のp.224から、『ぐら・こん』についての記述を抜粋し引用させて戴こう。
「「ぐら・こん」とは、GRAND・COMPANIONの略で、でっかい仲間たちの集まりの場である。(中略)日本全国に群がるまんが愛好者が、よりまんがを認識し、よりまんがをマスターするためには、ひとりでも多くの同志と手を結ぶことが必要である。おのおのがバラバラに活動しても、その活動力は微々たるもので、たいへん弱い。
そのためにも団結し、一体とならなければならない(以下略)。」
『ぐら・こん』の名付け親は、漫画家にして編集者、かつまんが評論もこなす、真崎守であったらしい(注2 p.12)。なお、『COM』には別冊付録がついていた時期があって(1968年1、4、5~12月号)、そのうち5~12月号のそれが『ぐらこん』という題になっていたようだ(画像参照)。『ぐらこん(ぐら・こん)』という言葉は、組織やシステム、また『COM』各号の巻末にあったコーナーを指して使われる他、場合によってはこの別冊付録のことを言っている時もあるだろう。このへん、ちょっとややこしい。
板井れんたろう
単行本『地を這う魚』に『いててどう太郎』の名で登場しているのが、どうも吾妻ひでおの恩師、”板井れんたろう”その人であるらしい。
今も現役で活躍中の氏は、昭和30(1955)年に『関が原の戦い』でデビューしたようで、吾妻ひでおが入門した時点では既にプロ生活を13年間ほど送ってきていた事が分かる。デビュー後の昭和30年代には秋田書店の少年月刊誌『漫画王』で連載を持っていたらしく、しかも(これがちょっと意外なのだが)戦国時代を舞台とする史劇を幾つも発表していたようだ。『百万両の鈴』、『鼓坂の決闘』などの題名が分かっているが、いずれも時代劇である。これは当時の世相や流行が氏に要求した結果だったのかも知れないけれど、その後の活躍とはどうもスムーズにつながらず、かなりかけ離れた感じで、こうした作風の変遷は大変興味深いものがある。
ここに画像を紹介しているのは実物の入手確認ができた『がんばれ太郎丸』(秋田書店『漫画王』昭和32(1957)年3月号付録、全52ページ)で、まず絵柄が氏の現在のそれとはずいぶん違うようで驚く。当時の手塚治虫の諸作品から強い影響を受けている(或いは、それらをお手本としている)印象を僕は持ったのだが、どうであろうか。あまつさえ、この作品はギャグではなくてストーリー漫画(!)なのだ。ために、作画は全体として写実味が強い。もっとも、氏の代表作の1つであろう『ポテト大将』の主人公によく似た人物が、もう既にここでちょこっと出演していたりする。
『ポテト大将』が月刊誌『少年』に連載されるのは昭和36(1961)年頃なのだが、調べてみるとそれ以前、昭和34年には野球まんがの『バットくん』を連載(秋田書店『漫画王』)し、『特急探偵』という作品も『少年』誌上に発表している。実物確認ができていないのだが、これらの作品はおそらく”ストーリー漫画の中にギャグがちりばめられている”という様式で、つまりは、手塚治虫の少年まんがの型にならったものなのではないだろうか?
それが、構成上の比重や配分で変化してゆく、すなわち、”ストーリーの薬味として時々ギャグが入る”というのではなくて、”ギャグがもっと強く前面に出てくる”ようになったのが、『ポテト大将』あたりからだったのではないかと思われる。そしておそらくは、そうした内容の変化と同期して、絵柄が写実から少しずつ自由に向かい、氏の現在の作風へと通じる礎が築かれていったのではなかったか。
少年漫画の主人公は”紅顔の美少年”ーーといった定石が、少なくともストーリー漫画においては、昭和30年代だと支配的だったのではと思うのだけれど、もしかしたら”板井れんたろう”は、そうした定石を脱し、新しい定石を構築してゆくさきがけとなった1人なのかも知れない。正確に調べるだけの資料が僕の手許には無いのだけれど、前出の『ポテト大将』をはじめ、『スリルくん』(秋田書店『まんが王』昭和43(1968)年)や『ドタマジン太』(秋田書店『冒険王』)など一連のギャグまんがのシリーズは、試行錯誤と模索探究を重ねるうち、板井れんたろう独自の個性が開花してゆく過程に生まれた結晶なのだろう。
吾妻ひでおは年齢的に、時代劇から出発した板井れんたろうがギャグまんがの大家へと変貌してゆくプロセスを目撃し知っていたはずなのだけれど、氏の作風のそうした大きな移り変わりは、自身が、手塚治虫や石森章太郎(そして、板井れんたろう)とは異なる独自の作風を確立しなくてはと決意を固めるうえでもお手本になっていたのかも知れない(?)。
ボーイズライフ
『ボーイズライフ』はかつて小学館により発行されていたB5版330ページ程の月刊誌で、1963年の4月号から1969年の8月号まで続いたらしい。吾妻ひでおがこの雑誌を定期的に講読していたのかどうか良く分からないが、存在した6年間のあいだに接触はあったようで、自伝マンガ『
こうして私はSFした』の中に、「ボーイズライフのふろく SF事典を手にきびしい修行が続いた」というナレーションが読める。
その「SF事典」がいつの付録だったのか残念ながら不明なのだが、調べてみたら1965年の9月号に、「マニア宝典 SFファンにおくる大特集!! SF事典」なるものが掲載されたようである(p.165~180)。これはB5サイズの本誌の中へA5サイズで綴じ込み収録された記事で、その中には「SF名作ガイド」というページもある(p.172~177)。もしかすると吾妻ひでおは、この特集記事を切り取って自ら製本したのかも知れない(?)。
上の画像は入手に成功した現物、1969年3月号の表紙。これの中を見てみると、いろいろ当時の青少年文化の事情がわかって面白い。
すでに1960年代前半ほどではなくなっていたにしても、まだまだ現実の中にSFめいた(?)話題がいろいろあったようで、米国アポロ計画による人類初の月着陸も実現してはいなかったからかどうか、メキシコで空飛ぶ円盤が落としていった宇宙人の赤ん坊(?)の死体なるものの写真が掲載され5ページの記事に組まれている(解説は南山宏)。
また、「人造人間」という語が大真面目で用いられ、ロボット技術の現在と未来に関し8ページの2色刷り記事がある(構成は大伴昌司)。
劇画3本、ギャグまんが2本の連載があるのだが、分量としては活字のページの方がはるかに多いようで、こうした構成も当時らしいと言うべきか。読者からの投稿を見ると中学三年とか高校一年とあって、恋愛の体験記が載っていたり、文通相手を探すコーナーもあり(これは同じ小学館から出ていた月刊誌『女学生の友』と連動しており、そちらから応募があったらしい少女たちの住所と名前と学年、そして顔写真までが掲載されている)、まさに総合的な情報を、学校の勉強以外の領域から実に幅広く網羅していたようだ。
同じ小学館による出版物では「ビッグコミック」と「少年サンデー」の広告が載っており、これら2つの雑誌のちょうど中間にいる年齢層の読者を想定していたのではないだろうか?
外国映画の紹介には『華麗なる殺人』(これはSF作家ロバート・シェクリィの原作をもとにしている)が取り上げられており、読者投稿による「BL名物1000字コント」というコーナーでは筒井康隆が選評を担当していたりして、この辺も微妙に吾妻ひでおとのつながりを感じるが、どうだろう。