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80 (関連出版物など)

はじめに

 このカテゴリーでは以下のようなものを紹介しています。 

(1)共著または挿絵を担当した本
(2)研究書
(3)その他

 これらは"あらすじ"を紹介するのが難しかったり、そもそも吾妻ひでお本人による創作著作物ではなかったりするので、ほんらい当サイトの取扱い範囲外になるでしょう。
 とはいえこれらの書籍類には面白い要素がたくさん含まれており、大変参考になると思う。そこで、いくつかを資料としてこのカテゴリーにまとめてみたいと思います。
 ただし以下の記事はあくまでも出版物に書いてある内容からひろっているだけで、吾妻ひでお本人や関係者の校閲を経てはいません。よって、もし原典たる参考資料に事実と異なる記載があった場合は、それもそのままになってしまうでしょう。また、作者に関する事というのは、作品から離れ、ゴシップ(うわさ)を扱ってプライバシーの侵害となる危険が常につきまといそうです。それゆえ記述と公開にあたっては個人情報の保護を最優先すべく努めたいと思います。こうした点なにとぞご理解ください。

(2013年付記:吾妻マンガの単行本ではあるものの、特殊なテーマにしたがって編纂された「選集」 も、このページに載せています)



ロック冒険記

(手塚治虫・作 『少年クラブ』掲載)

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 吾妻ひでおは、数ある手塚作品のなかでもとりわけ、このシリーズに強く影響を受けたのか、いくつかの自作(『SF玉手箱』、『幕の内デスマッチ!!』)やインタビューなど(『吾妻ひでお大全集』p.48、『ニッポンのマンガ』p.199)で言及している。
 手塚治虫は昭和26(1951)年に『少年』で『アトム大使』の連載が始まり、そのあと『少年クラブ』から依頼を受けて当シリーズを執筆したようだ(昭和27(1952)年7月号~29(1954)年4月号)。しかし、
「「鉄腕アトム」よりもっとこみいって、空想的なこの筋立ては、当時のほとんどのこどもたちには、よく理解されずにおわってしまったようでした」と記している(『手塚治虫漫画全集8 ロック冒険記②』あとがき)。また、
「この作品のヒントは、チャペックの「山椒魚戦争」です」(前同)とのことで、人類が他の知的生命体を"奴隷"として扱いその生殺与奪の権を握るという重いテーマを描いている。類似テーマの手塚作品には『人間ども集まれ!』があり、こちらでもチャペック(Karel ?apek)の『山椒魚戦争』(Valka s mloky)について、あとがきに言及があったと記憶する。しかし後者が青年誌で発表された作品である(だからか性を玩具また商品とする文化についての風刺も含んでいる)のに対し、この『ロック冒険記』は全くの少年向けとして執筆されているのだから、子供を相手にこうしたテーマで物語ろうとした手塚の創作態度には唸らされる。
 手塚治虫漫画全集でのカバーイラスト(画像参照)では、主人公達の肖像があえて全く色彩の無いような描かれ方をしているのだけれど、これは作者が当シリーズを、たんなる娯楽冒険活劇として受け取っては欲しくないと願ったからだろうか?
 こうした"渋い"作品が手塚マンガで特に印象に残ったという吾妻ひでおはやはり、平凡な少年読者ではなかったのだろうと思う。



フレドリック・ブラウン

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 『私の読書体験記 どくたい』によれば、吾妻ひでおは中学生の時に『路傍の石』を読んで暗澹(あんたん)とした思いに取り憑かれたという。そうした経験の反動もあったのだろうか、図書室で星新一を読み「世の中にはこーゆー小説もあるのかー」と衝撃を受けたことを語っている(『こうして私はSFした』)。続いて本屋でブラウンを見つけてSFを読み始め、そうこうするうち「おれって…SFだったんだ」と自分を知るに至ったらしい。
 この作家、フレドリック・ブラウン(Fredric William Brown 1906年10月29日生~1972年3月11日没)にはとりわけ感応するところがあったのか、吾妻ひでおは何度かその名前をインタビューなどで挙げている。
 画像は創元推理文庫『未来世界から来た男』のカバー。この書籍は同文庫SFマークの第一弾として発行されたらしく(?)初版が1963年9月6日で、原著(Nightmares and Geezenstacks)は1961年に出版されたようだ。その巻末にある『ノート』(筆者は厚木淳)によればしかし、
「ブラウンにSF作家あるいは推理作家という単一のレッテルを貼るよりも、むしろ彼の本質が短篇作家であり、その自由奔放な発想を定着させる形式として推理小説とSFを効果的に使いわけていると見るのが妥当ではあるまいか。」
 とのことで(p.251)、実際この書籍でもその半分は推理小説(?)が収録されている。推理小説とはいっても犯罪やトリックの謎解きを興味の中心にするタイプのそれではなく、ヘンな艶笑小話みたいなのも含まれており、大変ユニーク。SFも、読むうえで科学知識が要求されるタイプのそれではないため、その玄関が非常に広く万人向けになっている。主人公がひどい目に遭うブラックユーモアなオチが多いのは、作者のブラウンが生涯に2度の世界大戦を目撃し、現実というものの暗部も知悉させられていたゆえか?
 なにはともあれ、短篇というかショート・ショートのお手本を集めたような内容に思える。吾妻ひでおもこうした作品集から多くを学び取ったのだろうか。

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 なお、ブラウンの作品には長編もいくつかあり、『発狂した宇宙』(WHAT MAD UNIVERSE)はその1つであるらしいのだが、こちらはハッピーエンド(?)。画像はハヤカワ文庫のもので、巻末の『解説』では筒井康隆がペンをとって、これを「多元宇宙SFの決定版」と評価している。



ロバート・シェクリイ

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 好きなSF作家として、吾妻ひでおがブラウンと共にしばしばその名前を挙げているのがロバート・シェクリイ(Robert Sheckley 1928年7月16日生~2005年12月9日没)。やはり短篇が得意な人のようで、ハヤカワ文庫版『人間の手がまだ触れない』(画像はそのカバー)にある解説(筆者は高橋良平)によれば、
「六〇年代、日本SF界の草創期のころ、SFの普及・浸透の大任をはたしたのが、フレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリ、そしてロバート・シェクリイの三羽烏だった」
という(p.293)。
 門外漢の目で読むに、シェクリイもまた(当然なのだろうけれども)強い個性と特徴を持つ作家のようだ。僕がとりわけ感心したのは、
”未知のものを描いてみせる”
という点で、設定が細かいのか、叙述によるのか、登場する架空の生物や制度や社会構造などには奇妙な説得力がある。
 たとえば表題作『人間の手がまだ触れない』(Untouched by Human Hands (初出時タイトル One Man's Poison) 1953)は、食料が底をついてしまい、無人の惑星へ緊急着陸した地球人がなんとか食いものを得ようとし、宇宙人の倉庫を必死に調べる話なのだが、これなどは物語それ自体よりも、主人公たちの眼前に出てくる”地球人類にとって未知の物品”にいちいち存在感があって、読者は本当に”未知”を目撃しているような気分にさせられそうだ(こうした点はしかし、もしかするとSF慣れしているマニアより、SF免疫を持たぬ読者にとって面白いのかも知れない?)。
 同じ「短篇」であってもシェクリイの作品はブラウンのものより長めなのだが、その理由はこういった細部の描写に枚数をさくことで説得力と臨場感を実現しているゆえであろうかと思う。
 公式ホームページにおいて吾妻ひでおは、読書評で時々「リアリティなし」と述べていたようだ。これがもし、「物語とりわけフィクションでは、読者をその世界へ引き込む努力が大切だ」という信念の現れであるとしたら、これはシェクリイの読者であったゆえにたたきこまれた事なのだろうか?



筒井康隆

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 吾妻ひでおは自作において、筒井作品のパロディをしばしば描いている。またインタビューでは自身が筒井ファンであること、そのギャグに「すごく影響受けた」ことを語っている(『逃亡日記』p.158)。
 筒井康隆の初作品集であるらしい『東海道戦争』(画像は中公文庫版のカバー)でも、そこに収録されている『チューリップ・チューリップ』などは、SFギャグになるかと思う。
 『チューリップ・チューリップ』の主人公はタイムマシンを作り、一応これに成功するのだが、そのヘンな展開に笑わされる。普通、タイムマシンの話とくれば、未来や過去で行なう何らかの行動に焦点を合わせる事になりそうなものを、この作品では時間旅行を終えた後、「現在」で発生する或るトラブルが細かく描かれる。進めば進むほど事態が悪化しどんどんややこしい事になってゆくという展開は、同様に時間テーマの話である『しゃっくり』、ロボット物の『うるさがた』、そしてやはりロボット物であろう『やぶれかぶれのオロ氏』などでも描かれている。
 筒井作品のギャグは「ヘンな出来事が発生する」という状況そのものが持つ意外性と同時に、そうした異常な場にとらえられた人間が何をどう考えどう行動するかという人間描写が実に細かく、笑わされるとともに感心させられる。
 (執筆当時の)日本の現状から演繹されたような要素もあるので、外国の読者や、日本人であっても当時の世情を経験していない若い世代にはうまく全部が伝わりにくい部分もあるかも知れない(?)。
 ともあれ、小さな薄い紙を一枚一枚ていねいに貼り重ねていって造形するような筆致はたいへん精密であり、僕なぞは笑うよりも驚くところが大きかった。うまい表現が思いつかないのだけれど、論理的で硬派なギャグ、とでも言うべきか。
 また、ギャグが皆無の作品もある(『群猫』ほか)。多種多様な作品を描けるその才能と実力に、吾妻ひでおは感銘を受けたのだろうか。



シオドア・スタージョン

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 シオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon 1918年2月26日生~1985年5月8日没)は短篇の巨匠とされる作家なのだそうで、1987年には『シオドア・スタージョン記念賞 (Theodore Sturgeon Memorial Awards)』がもうけられたという。吾妻ひでおはスタージョン作品も好みであるらしく、長編では『人間以上(More Than Human)』が最も好きだ(「女の子も好きだけど、ロクな人間が出て来ない所」に魅かれた)とインタビューで答えている(1981年『吾妻ひでお大全集』p.47)。『人間以上』(国際幻想文学大賞(International Fantasy Award)受賞作品)は超能力者テーマの物語として、もしかすると吾妻マンガに複数ある超能力者もの(『ななこSOS』ほか)に影響を与えているのかも知れない? またスタージョンには『きみの血を(Some of Your Blood)』という吸血鬼テーマの作品や、探偵小説もあるらしく、このへんも吾妻マンガと微妙に重なるところがあるような気がするのだけれど、どうであろうか。
 画像は創元SF文庫『時間のかかる彫刻』のカバーなのだが、この短編集にある同名作品(Slow Sculpture)は、ヒューゴー賞 (The Hugo Awards)とネビュラ賞(The Nebula Awards)の両方を受賞している。そこで恐縮しつつこの本を読み始めたのだけれど、
「これSF!?」
というのが最初に懐いた僕の感想また驚きだった(無知蒙昧な一読者の駄文をなにとぞ御寛恕願いたい。きちんとした評論はその能力を持つ方々が公開しておられるだろうし、ここで僕ごときにできる事と言ったら、拙劣極まりなくとも「自分の考え」を作文するくらいしか無いんだもの)。とにかく「SFらしくない」ように見える。更に述べるのを許されるなら、いまひとつ「面白」くない。
 誤解されぬよう言葉を足すと、純文学ふうの硬さがあって、そのぶん通俗な面白味はやや乏しくなり娯楽性が最優先はされていない感じがする、ということなのだ(作者がSFの映画やTVドラマで脚本執筆もしたらしい事実から考えると、これは意外に感ぜられる)。もちろんそういう「面白さ」は小説の価値と直接の関係は何も無いだろうと思う。とはいえ、世間からの拍手にはたぶん比例する。この点スタージョンはもしかするといささか苦しんだろうか?
 『きみなんだ!』『ジョーイの面倒をみて』『ジョリー、食い違う』『茶色の靴』『自殺』などは現実のアメリカ社会から一歩も出ていない内容に思えるし、『箱』は舞台設定こそ未来の宇宙であるものの内容は真面目な青春小説になっている気がする。最も戸惑ったのは『ここに、そしてイーゼルに(To Here and the Easel)』で、読んでいくと、僕が純文学にいつも味わわされる「なぜここにこういう一文、描写が入っているんだろう?」という難しさに何度も直面させられた(つまりは文章が単なる"説明"にとどまってはおらずそれを超えていて、僕のような読者には高度に過ぎ、作家が伝えようとしているところを理解するまでに"背丈"が届かないのだ)。
 ダメな読者である僕は結局、スタージョンの経歴にむしろびっくりした。生涯に5回結婚したというから、作者はよほど女に強い人で、そういうタイプだと創作するより自身の現実を生きる方に忙しくなってしまいそうなのに? と不思議に感じたりした。しかしこれもきっと誤解なのだろう……作家が行なう「創作」とは、僕ら凡人もなしうる「夢想」の類とは根本的に別の営為であってその延長線上にある事ではたぶんないのだ。異性(というこの人類社会の半分、或いは男の視界で評価するなら自分の外にある異質領域の全て!)に詳しく、だからけだし非常に現実的なタイプだった(?)のではと思える人が小説という非現実を紡ぐのに生涯を捧げたのは、奇妙な事ではないのだろう。「作家」(の内面)とはいったいどんなものなのか、それを解明し描きとめる事に成功したのが『ここに、そしてイーゼルに』で、作者はこれを会心の作とばかりにとても気に入っていたらしい。だのに、それをちゃんと読み取れないのを申し訳なく思う。スタージョンは幸福だったろうか? 『ここに、そしてイーゼルに』が何らかの賞を得てはいないらしい点に、作家と読者の間にある隔たりのようなものを感じて、もしや孤独だったのでは、などとつい思ってしまう。
 作品以上に作者自身が波乱に富んだ人生をおくっているというところに、僕はやはり、吾妻ひでおの『失踪日記』を思い出し、ここでもスタージョンと何か共通するものを見たような気がして複雑な気持ちになった。
 良い読者、良いファンたることは、なかなか難しい……。



つげ義春

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 吾妻ひでおは『失踪日記』の中で以下のように述べている(p.140)。
「プレイコミックの『やけくそ天使』はこの頃からSFのパロディやつげさんのパロディやりだして楽しくなってきた」
 ここで「つげさん」とあるのが、漫画家である「つげ義春」を指しているらしい。
 つげ義春(1937年10月31日生~)は、日本でマンガ週刊誌や月刊誌さえもまだ普及していなかった頃、貸本マンガと呼ばれるメディア様式の時代から活躍してきた大ベテランのひとりで、その作風はたいへん地味でありながら時に思いもよらぬような実験的作品を発表したりしている。『ねじ式』『ゲンセンカン主人』『紅い花』などはおそらくとりわけ有名であり、映画やTVドラマにもなったことがあるようだ。
 つげ作品はその強烈な個性からしばしばパロディの題材にもされており(逆に言えばパロディにされてもその「元ネタ」が分かるほどに独創的だということだろうか)、一例として、やはり貸本マンガ時代から活躍している長谷邦夫が月刊誌『COM』誌上などでそうした作品を発表してきた。この、長谷邦夫によるパロディは、いろいろな漫画家の有名キャラクターたちが無断借用的に次々と登場し、いろいろな絵柄が入り乱れているので、トビラに「長谷邦夫」と明示されていない場合(時には本当にそこまでやってのけて、作者名が「モンキー・ピンチ」などとなっていた事さえあったと記憶する)には、一体作者が誰なのか、合作なのか贋作なのか分からなくなってしまう徹底的なもので、『COM』の読者であったらしい吾妻ひでおも恐らくは、こうした長谷邦夫によるパロディ作品を当時に読んでいたのではないかと思われる。
 ただし、吾妻マンガにおけるパロディはその手法がまた独自のものになっており、絵も物語も吾妻マンガのままで調和を保ちつつ、台詞や場面をこっそり引用し劇中に埋めて隠す、といったやり方になっているようだ。加えて、心なしか、あまりにも有名な作品や場面はあえて避け、本当にマンガ好きな読者でないと知らないような部分を選んでこれを行なっているような印象がある(?)。
 前衛マンガからの引用パロディというのは、SF小説からのパロディ以上にこれを理解できる読者が少ないのではなかろうかと思える。しかしこうしたパロディに気付き、見抜いて、「ニヤリ」とできる一瞬があった時には、そこに、単なる描き手と読み手という関係を超えた、幸福な絆のようなものを実感できるのではないだろうか。
 吾妻ひでおは、そういう「つきあい」を許してくれるマンガ家なのだと思う。
(画像は小学館文庫による短編集のカバー。)



石森章太郎『マンガ家入門』

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 1965(昭和40)年に出版された『マンガ家入門』は、吾妻ひでおをしてプロとなる決意をせしめた書籍であったらしく、吾妻マンガやインタビューにおいてしばしばパロディや言及がある。著者はかの石森章太郎、執筆当時27歳であったという。
 石森章太郎はその前書きにおいて、『マンガの書き方』という本を卒業した読者のためにと依頼されて引き受けた事を語っている。この『マンガの書き方』という本は僕も昭和40年代に買って読んだのだけれど、記憶がもし正しければ、技術的な事や業界内部についての知識よりは「心得」を説くような色彩の強い内容で、良書ではあったろうものの、児童向け図書としての限界を持っていたようだ。それに比しこの『マンガ家入門』ではかなり実戦的また具体的な記述が多く含まれており、1966年には『続マンガ家入門』も発行され、当時おそらく最も詳しい入門書だったのではないかと思われる。
 『マンガ家入門』と『続マンガ家入門』は再編集されて『石ノ森章太郎のマンガ家入門』という1冊の書籍に生まれ変わり、1988年に再び発行されている。ただしこの段階で、残念ながら原著の多くのページが割愛されてしまったようだ。それでも、マンガという手段による創作の楽しさ素晴らしさを語り伝えると同時に、読者ウケを気にせざるを得ないプロならではの矛盾について読者にあらかじめ警告する点は失われていない(石森章太郎は「自分の創造した世界を破壊することの苦しみ」という表現を、あとがきに記している)。
 名著であるのみならず、吾妻マンガの原点を知るうえでも重要な書籍だろうと思う。

(上の画像は、1998年10月、秋田文庫として再び発行された『石ノ森章太郎のマンガ家入門』の表紙。)





*こちらの画像は、入手できた1967年の16版。定価320円だったようだ。
堅表紙のしっかりした装丁で、しかもボール紙製のケースにはいっている(画像は、表側と裏側を示す)。これのおくづけによると、初版は1965年8月15日であったらしい。のちに発行された『続・マンガ家入門』(1966年8月15日が初版)は定価350円だったようだ。



*いっぽうこちらは、『続・マンガ家入門』、やはり堅表紙でボール紙のケース(画像右側はそれのうしろ側)に入っている。
 大部分を読者からの手紙(『マンガ家入門』を読了しての感想や希望、質問)の紹介に割き、著者がそれらに答えるという構成をとっている。
 アイディアをノートにまとめ、それが作品になってゆく過程の実例がいくつか収録されているのだが、この「ノート」を見ると、吾妻ひでおが非常に良く似た段取りで執筆していることを連想させられる。けだし吾妻ひでおはその作劇術の基礎的な方法をこのシリーズで学び取り、実行してきているのではと思える。



月刊コミック・マガジン COM 1967年 第9号

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(虫プロ商事株式会社 昭和42(1967)年9月1日)

 吾妻マンガが掲載されているワケではないのだが、プロデビュー前に加わったという「ぐら・こん北海道支部」について記事があり、北海道支部作品会誌『月刊・ミロ』の表紙写真なども小さいが載っている(p.217)。記事内容は以下のとおり(引用者注:実名など個人情報が記されている部分はイニシャルに置き換えたりしています)。
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「この夏休みを利用して、七月二十八日、北海道支部のK・K支部長はじめ、平均十八歳の若さあふれる六人の会員(引用者注:これが”北風六人衆”だったのではないかと思われる)が遊びかたがた上京。到着したその日に休む間もなく、まっすぐ『COM』編集部を訪問。I S 両記者より今後の方針などのアドバイスを受けた。
 六名は、さらに、各まんが家を訪問して八月上旬帰北した。
 なお、ぐら・こん北海道支部の住所が左記の通り変更いたしました。
小樽市花園×の×の× K・K」
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 同じページには「ぐら・こん支部長募集 まんがマニアのリーダー」という記事がある。「ぐら・こん」とは"GRAND COMPANION"の略であるらしい(p.205)のだが、それがどのような組織であったかが分かるので、こちらも以下に引用させて戴こう。
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「「ぐら・こん」本部では、全国のまんがマニアが、よりスムーズにまんがを勉強していくため、「ぐら・こん」支部を全国に設け、各支部に一名の支部長(任期二年)を置きます。支部長に立候補するには、
①作品一点(まんが、またはイラスト)
②最近制作した同人誌。(肉筆、回覧誌を含む)。
③まんがに関するレポート。(四百字づめ原稿用紙三枚以上)。
④住所、氏名、生年月日、職業、略歴、写真。
⑤いままで、はいっていたまんがグループ名。
⑥支部長立候補としての抱負、動機等を百字以内にまとめる。
 以上を「ぐら・こん」本部宛に送ってください 「ぐら・こん」本部では、厳重な選考をおこない、最適と思われる方を各支部から一名選出し、支部長に任命いたします。
 なお、東京、関東、北海道の各支部は決定しています。」
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 その手前のページ(p.218)には「ギャラリー喫茶 コーヒーと洋菓子 コボタン」の広告がある。僕の記憶が正しければ、無気力プロ発行のコピー新聞である「アリス」(1977年9月11日)に発表された『吾妻ひでお伝!』の最後のコマで、この店が登場していた。上京したものの苦しい日々が続いていた吾妻ひでおはこの店でまんが仲間である旧友(『せーしゅんさんか 武蔵野荘のころ』によれば松久由宇だったらしい?)と偶然出くわし、人生の道が開けたらしい(連載は中断したため詳細は明らかにされずに終わった)。広告に店の住所は書いてないが、簡単な地図はある。それによれば、おそらくこの店は現在の東京都新宿区2丁目に存在したようだ。地図には店の前を鉄道が走っている(店は鉄道線路よりも北東側にある)ように書かれており、これはどうも都電(当時まだ存在した路面電車)であるらしい。11系統(新宿駅前~月島通八丁目)と12系統(新宿駅前~両国駅前)がここを走っていたものと思われる(前者は昭和43(1968)年2月、後者は昭和45(1970)年3月まで運行していた)。この「コボタン」は大変有名であったらしく、インターネット上にも当時を知る人々の証言がいろいろ見つかる。上の画像は、広告にある地図を参考に、現在の東京都新宿区新宿2丁目付近を調べ、「コボタン」が存在したのではないかと思われる位置を示したもの。




 単行本『地を這う魚』では、この『コボタン』が何度も登場している(p.9など)。吾妻ひでおの上京が1968年のことなので、店の前を走っていた都電(画像の黄色い路面電車はその模型)を見かけただろうと思えるのだが、『地を這う魚』には描かれていないようだ。ほかの鉄道や交通機関はしばしば出てくるのになぜ? と考えるに、吾妻ひでお(と北風6人衆)は、この「都電」を利用せず、新宿駅から徒歩でここまで来ていたのでは、という気がする(1駅ちょっとなので歩けない距離ではない)。アシスタントしに行くのに、コーラの空瓶を拾って電車賃を工面したというくらいだから(p.85)、金払うより歩いちゃえ、と決めたのではあるまいか? 些細な事柄を推理するようではあるけれど、このへん、いかに貧しかったか、いかに若い体力があったか、といった当時の様子がうかがい知れるように思う。



(付記:『COM』)

 ここで、『COM』という雑誌について、少しまとめておこうかと思う。僕に分かっている範囲内でしか書けないので、何かの役に立つかどうかは不明だが……。
 基本参考資料としては、

(1)月間Peke 1979年2月号 ”幻の雑誌COM大特集” (*以下、「注1」とする)
(2)月間COMIC AGAIN 1979年5月号 ”COM特集PART2” (*以下、「注2」とする)

を用い、その他に、入手できた現物などをひっくり返しながら書いてみよう。

<1>吾妻マンガとの関係



 吾妻ひでおがデビュー前に、読者の立場で関わりを持ち、ほどなくして休刊になったのが『COM』なので、吾妻マンガが掲載された事は1度も無い……と、言いたいところだけれど、実は、『COM』が誌名と編集方針をちょっと変え、『COMコミックス』になってから、1度だけ執筆している(1972年3月号、画像はその表紙)。まずは、その作品を紹介しよう。

映画(卒業)を見てるといくらかおもしろいよ!



*これは「特集・卒業」というコーナー(3月号だったからだろう)に載った見開き2ページの4コマまんが。元ネタは1967年のアメリカ映画『卒業』(The Graduate)らしいのだが、この映画のクライマックスである大変有名な場面を模した状況から、物語の幕が開く。映画とは違い、男(作者の自画像が登場している)はひどい目にばかりあって、なんともお気の毒。台詞は皆無に近く、こうしたパントマイムの手法は『タバコおばけだよ』などにも用いられている。
 この作品は、単行本未収録のようだ。

 なお、吾妻ひでおは「ぐらこんの座談会にアシスタント時代、出席した事がある(注1 p.39)」そうなのだけれど、これがいつの事だったのかはよく分からない。『COM』には一時期、『まんが風土記』という連載があって(1968年4月号~1969年12月号)、記者がその土地出身のプロ漫画家と共に日本全国へ赴き、その地のマニアたちと座談会を開いていたようなので、もしかするとそれだったのかも知れないが……?

<2>読者としての吾妻ひでお

 さて、『逃亡日記』では自身が、
「当時は『COM』買ってドキドキしながら読んでた」
事を語っており(p.115)、『地を這う魚』では仲間たちと一緒によくこの雑誌を読んでいた事がうかがえる場面が出てくる(p.10、36、58など)。1970年前後、マンガに青春を賭けていた若者たちにとって『COM』は必読(?)の雑誌だったようだ(蛇足ですけど、当時に小学生だった僕も、古本屋で発見すると買って読んではおりました)。
 吾妻ひでおは電話のインタビューで以下のような発言をしている(注1 p.39)。
「だいたい読んではいましたね。(中略)マニアっぽさってのが魅力で(中略)。一時、COMを破く会というのがあって、COMを破くのが流行りましてね。「もうこんなのは越えたんだ!」とか言ってね。COMがつぶれた頃にはもう熱は醒めていましたけどね。(中略)全部持ってますよ。」
 ……そういう雑誌であったのだが、その創刊までには、いろいろな事情が存在したらしい。

<3>『COM』創刊

 少しさかのぼって1964年8月、手塚治虫の『虫プロ』は、ファンクラブの機関誌として『鉄腕アトムクラブ』を創刊した(注1 p.38)。これは1966年10月まで続いたのだが、購読者へ郵送されていたらしいこれの発行は、虫プロにとって財政的には収益よりも損失をもたらすものになってきた。そこで、『鉄腕アトムクラブ』は休刊、かわりに新雑誌を創刊して12月から全国書店で発売するという変更が実施されたようだ。それが『COM』だったのである(注2 p.19)。『鉄腕アトムクラブ』の最終号にはその予告が載っており、以下のような、手塚治虫の言葉が読める。
「この雑誌で、わたしはほんとうのストーリーまんががどういうものかを読者のみなさんに知ってもらいたいし、一方この雑誌を、新人まんが家の登龍門として役立てたいと思います。」
 そしてこの予告の最上段には、
「まんがエリートのためのまんが専門誌」
という文言がある。
 『COM』は、そういう雑誌として生まれたのだ。それはちょうど、「貸本漫画」というものが滅亡してゆき、それらによって育った漫画マニアたち、プロ漫画家の予備軍たる人材が日本全国に分散、孤立している時代であったという(注2 p.8)。

<4>『COM』の変遷

 とはいえ、『COM』の編集方針は、年月を経るうち少しづつ変化してゆく。そのことは表紙にも微妙な反映があるようだ。



 創刊号(1967年1月号、画像は注2のp.7よりその表紙)は手塚治虫『火の鳥』で飾られ、題名の隣には敬礼しているアトムの肖像がある(これは雑誌『鉄腕アトムクラブ』の表紙にあったものと同じ画像が引き続き用いられたように見える)。「「手塚治虫先生の新しいまんがや名作を中心」とする、いわば手塚治虫の個人誌となるはずだった」(注2 p.10)というから、これは当然の装丁といえようか。
 しかし、創刊したその翌月の2月号で表紙は永島慎二(?)となり、3月号は石森章太郎(?)、そして同年7月号から長谷川京平によるイラストレーションとなってそのまま続き、とにかく、手塚治虫の絵ではなくなる。あれれ、と思っていたら1968年1月号からは和田誠にバトンタッチして、氏による1コマまんが風のイラストレーションが『COM』の顔になった。



 この、和田誠による表紙はしばらくのあいだ続いたのだが、何たることかその最中、1969年1月号以降は、ずっとそれまで表紙にいた鉄腕アトムがその姿を消してしまう。



(上の画像はその1969年、12月号の表紙。この号のp.129には、同時期に虫プロ商事が発行していた『ファニー(増刊号)』=後述 の広告が載っている。)



 で……。1970年1月号になると、表紙は和田誠のイラストレーションのままだったが、なぜか文言に変化があって、「まんが界に躍進する本格派まんが月刊誌」となる(「まんがエリートのためのまんが専門誌」という文言が失われた)。画像は1970年4月号の表紙。



 このころ、姉妹誌(?)の『ファニー』は「レディのまんが週刊誌」として毎月第2・4金曜日に発行されており、それのまた姉妹誌たる『別冊ファニー』も健在だったことが広告(p.146、下の画像)から分かる。虫プロは映画でも画期的な大人向けアニメ『千夜一夜物語』を完成、公開していたし、その経営危機を感じさせる予兆は、僕ら市井の側から見たとき、何も無くむしろ逆で、順調のように思えた記憶がある。



 ところが1971年になると表紙の絵がまた替わり(複数の人が担当したようだ)、キャッチフレーズも同年1月号からは変更されて、「まんが界をリードするユニークなまんが専門誌」となった。



 この文言はしかし、同年の途中(7月号?)から、「たのしくて おもしろい きみのための 月刊コミック・マガジン」に替わる。そのうえ表紙を飾る絵は、1コマまんが風のイラストレーションで年が明けたのに、途中から動物のシリーズ(?)みたいになり、11月号では馬と一緒にアメリカインディアン(?)が登場、そして12月号で唐突に松本零士の幻想的な作品へと変わっており、どうにも統一感が無い。編集方針がひどく不安定になり迷走し始めているような感じだ。この1971年には5/6(月)合併特大号というのが出版されていて、その表紙には「今月より内容が新しくなりました!!」と書かれているのだが、この頃から『COM』の苦境が始まっていたのだろうか?
 そして1972年1月号はもはや『COM』ではなくなり、『COMコミックス』に生まれ変わって、再出発する事になるのだった。

<5>『COMコミックス』



 『COM』から『COMコミックス』への変化は、どうやら営業上の理由によるものであったようだ(?)。当時、『虫プロ』は複数のまんが雑誌を発行していたが、これらはやはり儲かるものではなかったらしく、それによって更に収支は悪化してしまったらしい。少しずつ返せていた借金が、『ファニー』(ハイティーン向け(?)少女まんが誌)、『れお』(幼稚園~小学生向けまんが誌)、『ベストコミック』(主に、一流漫画家たちの作品を再録した雑誌。画像参照)を発行したら、ウン千万の借金が億に跳ね上がり、
「それで売れる雑誌にしましょうって事で出たCOMコミックスってのが青年雑誌」
になった、のだという(注1 p.45)。『ベストコミック』の12・1月合併号(1971-2年をまたいでいる)の裏見返しには、『COMコミックス』創刊号の広告が載っている(下の画像)。



  1971年末まで、いろいろ変化はあったにしても、とにかく『COM』は『COM』であり続けたようだ。掲載しているマンガ作品にしても、非常に資料性が高くマニアックな内容の特集記事や読み物にしても、「売れるマンガ(雑誌)」より「すぐれたマンガ(雑誌)」たらんと目指していた観がある。しかしいかに高邁であろうとも理想をばかり追っていたら会社存亡の危機につながる、と結論されたか、それまでの『COM』は、ここでひとまず終わる。『ぐら・こん』などのコーナーは継承されてはいるのだがそのページ数は大幅に減少し、『COMコミックス』の表紙にはもはや、まんが表現の前衛としての理念を感じさせるキャッチフレーズ等は見当たらない。『火の鳥』(と、『ほえろボボ』)は引き続き連載されたのだが、ますます”『COM』らしさ”といったものは失われたように感ぜられる。こうした変化はそれまでCOMを支持してきた読者を愕然とさせ、抗議の手紙がすごかったらしい。だからかどうか、この『COMコミックス』は3(月)号で、以下のような次号予告を出している(p.135、画像がそれ)。



「只今COMは生死にかかわる大手術中です。全快後も今までどおり皆様のよき友としてお付合い願いたいと思います。よろしく・・・・」
 この予告にはなぜだか「面会謝絶」という貼り紙も描かれており、あたかも、読者からの意見や要望は受け付けられないかのような印象を与えている。さて、ではその「次号」はどうであったかというと。



 上の画像がその表紙だ。なるほど、絵柄も変更されている。で、めくってみると最初に目に飛び込んでくるのが、なんと、ヌード写真のピンナップ(下の画像)なのである。



 (最初僕はこれを、何か別の雑誌のものが紛れ込んだのではないか? と疑った。糊がはがれていたし、目次を調べてもこのピンナップについて何らクレジットの記載が無いからだ。しかし冒頭の劇画が始まるのはp.7からで、ここに折込のピンナップがあったのは間違いない。……ヌードとはいっても絵画的な感じの構図で(撮影:林弘史)、モデル(映画女優の大堀早苗)はパンティをはいているから、ずいぶんおとなしいものではある(裏は映画『露出』から、クリスチナ・リンドバーグのヌード)。とはいえ、「マンガ」と「ヌード写真」と、一体何の関係があるのだろう? と考え込んでしまわざるを得なかった。21世紀になって初めてこれを見た僕が唖然としたくらいだから、当時に、それまでの『COM』を支持してきた読者にとっては、大変なショックだったのではないかと思う。)
 内容にも大幅な変化がある。前号で休載だった手塚治虫『火の鳥』は載っていないし、「つづく」になっていた『ほえろボボ』(村野守美)は打ち切りなのかこれまた載ってない、あまつさえ『ぐら・こん』も消滅(!)してしまい、読者のお便りを紹介する『コム・コムロビー』さえ無くなって、「COM名作コミックス 火の鳥」の広告も見当たらず、そしてこれらがいったいどういうワケなのか、説明らしきものは一切無いようだ。裏表紙の背に「発行所 虫プロ商事株式会社」の文言があるのを見落としたら、普通一般の読者にはこの雑誌と手塚治虫を結びつけることさえ思いもよらないのではなかったろうか?
 こうした変革が営業的にどこまで成功したかは定かでない。結局、この『COMコミックス』もまた終わりを迎え、1973年8月号には『COM』として復刊を果たす事になる。しかし、それが『COM』の最後となった。1973年8月22日、虫プロ商事は倒産したからである。

<6>『COM』の伝説

 かような幕切れになってしまったものの、あるいはそれも逆に作用しての結果なのか、『COM』は先駆的ないし前衛的なマンガ雑誌として、歴史にその名を残す事となったようだ。
 とはいえ、『COM』の評価については賛否両論あるらしい。漫画家の諸星大二郎(1969年12月号で第十七回月例新人入選作『ジュン子・恐喝』が掲載された)は次のような意見を述べている(注1 p.38)。
「何かスゴイ本だーーみたいな”神話”があるみたいですけれど、それ程のものじゃないんじゃないですか?」
 また、『COM』編集部にいた野口勲は以下のように書いている(注2 p.18)。
「大体『COMの神話』なんて言葉は、読者にとってこそふさわしい言い方で、僕を始め当時作り手だった者にとっては、状況はより陰湿で、雑誌作りに意欲を燃やす前に、くだらぬ人間関係に消耗し尽くされてしまうという、なんとも散文的な悪夢の連続だったはずだ。」
 ともあれ、明白なのは、『COM』が21世紀となった今でもなお、どこかで誰かにより語られ続けているようなマンガ雑誌だった……という事だろうか。

<7>『ぐら・こん』について



 最後に、『COM』1968年5月号のp.224から、『ぐら・こん』についての記述を抜粋し引用させて戴こう。
「「ぐら・こん」とは、GRAND・COMPANIONの略で、でっかい仲間たちの集まりの場である。(中略)日本全国に群がるまんが愛好者が、よりまんがを認識し、よりまんがをマスターするためには、ひとりでも多くの同志と手を結ぶことが必要である。おのおのがバラバラに活動しても、その活動力は微々たるもので、たいへん弱い。
 そのためにも団結し、一体とならなければならない(以下略)。」
 『ぐら・こん』の名付け親は、漫画家にして編集者、かつまんが評論もこなす、真崎守であったらしい(注2 p.12)。なお、『COM』には別冊付録がついていた時期があって(1968年1、4、5~12月号)、そのうち5~12月号のそれが『ぐらこん』という題になっていたようだ(画像参照)。『ぐらこん(ぐら・こん)』という言葉は、組織やシステム、また『COM』各号の巻末にあったコーナーを指して使われる他、場合によってはこの別冊付録のことを言っている時もあるだろう。このへん、ちょっとややこしい。


板井れんたろう



 単行本『地を這う魚』に『いててどう太郎』の名で登場しているのが、どうも吾妻ひでおの恩師、”板井れんたろう”その人であるらしい。
 今も現役で活躍中の氏は、昭和30(1955)年に『関が原の戦い』でデビューしたようで、吾妻ひでおが入門した時点では既にプロ生活を13年間ほど送ってきていた事が分かる。デビュー後の昭和30年代には秋田書店の少年月刊誌『漫画王』で連載を持っていたらしく、しかも(これがちょっと意外なのだが)戦国時代を舞台とする史劇を幾つも発表していたようだ。『百万両の鈴』、『鼓坂の決闘』などの題名が分かっているが、いずれも時代劇である。これは当時の世相や流行が氏に要求した結果だったのかも知れないけれど、その後の活躍とはどうもスムーズにつながらず、かなりかけ離れた感じで、こうした作風の変遷は大変興味深いものがある。
 ここに画像を紹介しているのは実物の入手確認ができた『がんばれ太郎丸』(秋田書店『漫画王』昭和32(1957)年3月号付録、全52ページ)で、まず絵柄が氏の現在のそれとはずいぶん違うようで驚く。当時の手塚治虫の諸作品から強い影響を受けている(或いは、それらをお手本としている)印象を僕は持ったのだが、どうであろうか。あまつさえ、この作品はギャグではなくてストーリー漫画(!)なのだ。ために、作画は全体として写実味が強い。もっとも、氏の代表作の1つであろう『ポテト大将』の主人公によく似た人物が、もう既にここでちょこっと出演していたりする。



 『ポテト大将』が月刊誌『少年』に連載されるのは昭和36(1961)年頃なのだが、調べてみるとそれ以前、昭和34年には野球まんがの『バットくん』を連載(秋田書店『漫画王』)し、『特急探偵』という作品も『少年』誌上に発表している。実物確認ができていないのだが、これらの作品はおそらく”ストーリー漫画の中にギャグがちりばめられている”という様式で、つまりは、手塚治虫の少年まんがの型にならったものなのではないだろうか?
 それが、構成上の比重や配分で変化してゆく、すなわち、”ストーリーの薬味として時々ギャグが入る”というのではなくて、”ギャグがもっと強く前面に出てくる”ようになったのが、『ポテト大将』あたりからだったのではないかと思われる。そしておそらくは、そうした内容の変化と同期して、絵柄が写実から少しずつ自由に向かい、氏の現在の作風へと通じる礎が築かれていったのではなかったか。
 少年漫画の主人公は”紅顔の美少年”ーーといった定石が、少なくともストーリー漫画においては、昭和30年代だと支配的だったのではと思うのだけれど、もしかしたら”板井れんたろう”は、そうした定石を脱し、新しい定石を構築してゆくさきがけとなった1人なのかも知れない。正確に調べるだけの資料が僕の手許には無いのだけれど、前出の『ポテト大将』をはじめ、『スリルくん』(秋田書店『まんが王』昭和43(1968)年)や『ドタマジン太』(秋田書店『冒険王』)など一連のギャグまんがのシリーズは、試行錯誤と模索探究を重ねるうち、板井れんたろう独自の個性が開花してゆく過程に生まれた結晶なのだろう。



 吾妻ひでおは年齢的に、時代劇から出発した板井れんたろうがギャグまんがの大家へと変貌してゆくプロセスを目撃し知っていたはずなのだけれど、氏の作風のそうした大きな移り変わりは、自身が、手塚治虫や石森章太郎(そして、板井れんたろう)とは異なる独自の作風を確立しなくてはと決意を固めるうえでもお手本になっていたのかも知れない(?)。



ボーイズライフ



 『ボーイズライフ』はかつて小学館により発行されていたB5版330ページ程の月刊誌で、1963年の4月号から1969年の8月号まで続いたらしい。吾妻ひでおがこの雑誌を定期的に講読していたのかどうか良く分からないが、存在した6年間のあいだに接触はあったようで、自伝マンガ『こうして私はSFした』の中に、「ボーイズライフのふろく SF事典を手にきびしい修行が続いた」というナレーションが読める。
 その「SF事典」がいつの付録だったのか残念ながら不明なのだが、調べてみたら1965年の9月号に、「マニア宝典 SFファンにおくる大特集!! SF事典」なるものが掲載されたようである(p.165~180)。これはB5サイズの本誌の中へA5サイズで綴じ込み収録された記事で、その中には「SF名作ガイド」というページもある(p.172~177)。もしかすると吾妻ひでおは、この特集記事を切り取って自ら製本したのかも知れない(?)。
 上の画像は入手に成功した現物、1969年3月号の表紙。これの中を見てみると、いろいろ当時の青少年文化の事情がわかって面白い。



 すでに1960年代前半ほどではなくなっていたにしても、まだまだ現実の中にSFめいた(?)話題がいろいろあったようで、米国アポロ計画による人類初の月着陸も実現してはいなかったからかどうか、メキシコで空飛ぶ円盤が落としていった宇宙人の赤ん坊(?)の死体なるものの写真が掲載され5ページの記事に組まれている(解説は南山宏)。



 また、「人造人間」という語が大真面目で用いられ、ロボット技術の現在と未来に関し8ページの2色刷り記事がある(構成は大伴昌司)。
 劇画3本、ギャグまんが2本の連載があるのだが、分量としては活字のページの方がはるかに多いようで、こうした構成も当時らしいと言うべきか。読者からの投稿を見ると中学三年とか高校一年とあって、恋愛の体験記が載っていたり、文通相手を探すコーナーもあり(これは同じ小学館から出ていた月刊誌『女学生の友』と連動しており、そちらから応募があったらしい少女たちの住所と名前と学年、そして顔写真までが掲載されている)、まさに総合的な情報を、学校の勉強以外の領域から実に幅広く網羅していたようだ。



 同じ小学館による出版物では「ビッグコミック」と「少年サンデー」の広告が載っており、これら2つの雑誌のちょうど中間にいる年齢層の読者を想定していたのではないだろうか?
 外国映画の紹介には『華麗なる殺人』(これはSF作家ロバート・シェクリィの原作をもとにしている)が取り上げられており、読者投稿による「BL名物1000字コント」というコーナーでは筒井康隆が選評を担当していたりして、この辺も微妙に吾妻ひでおとのつながりを感じるが、どうだろう。



週刊少年サンデー 昭和44年 3月23日号

Sunday

 この雑誌は、吾妻ひでおプロデビュー1週間前のものらしい(?)。
 『逃亡日記』(p.130)には「『少年サンデー』に四コマ漫画描いたけど名前も出なかったから、それがデビューかな」とある。この時期の事について月刊OUT昭和53(1978)年8月号(p.48『やけくそインタビュー』)にはより詳しい発言が記録されており、「少年サンデーの普通のマンガの上の方に四コマ漫画をやってて、最初が手塚さんの「0次元の丘」の上でね"あっ、手塚さんの上だっ"って感動した」とのこと。

Zero

 その、手塚治虫『0次元の丘』(青春シリーズ① 32ページ)が次号に掲載されるという予告をこの号に見ることができるのだ(p.111のハシラにある文言によればこの作品は「読み切りまんが」であって連載長編作品ではない)。よって、吾妻ひでおプロデビューはこの次、週刊少年サンデー昭和44(1969)年 14号(おそらく3月30日号、発売は同年の3月14日、70円)だったらしいということになるのだが……?

Mars1

 この頃の少年むけ週刊マンガ雑誌は毎号巻頭にカラーで特集記事を載せていたが(既に書いたかと思うけれど、無気力プロにはそれをスクラップし「SF」と題された手作り製本の作画資料が置いてあった)、この号には『火星大探検!!』という特集があり、岩崎敏二、伊藤展安(画像上)、高田藤三郎、斎藤信夫、長岡秀三(のちの長岡秀星、画像下)、藤田正純、小松崎茂、木村正志、依光隆(掲載ページ順)らの画家たちが絵筆をとっている。以下に引用するのは、特集のトビラにある文言。
「月の次は火星だ!! もうすぐ実現する、火星探検計画のすべてを、大特集!!」

Mars2

 しかしご存知のとおり、火星への有人探査は21世紀となった今でもまだ実現していない。人類初の月着陸はこの年の7月20日になってからだったが、雑誌編集者たちはそれさえ成就していないうちにもう、読者の少年たちへ更に先の事を垣間見せようとしていたのである。こうして現実の宇宙開発が進む一方、フィクションの世界すなわちSFの領域では、何か苦境にあったのかも知れない(例えばこの号には横山光輝による超能力者テーマの作品『地球ナンバーV-7』の最終回が掲載されている)。
 SFを得意とする吾妻ひでおは、微妙な世情の只中にそのデビューを果たしているようだ。


少年チャンピオン



 吾妻ひでおが『週刊少年チャンピオ ン』で連載を持つようになったのは1970年の夏、『荒野の純喫茶』からで、そのあと、1979年の春、『シャン・キャット』にまで続いている。その後は(同じ秋田書店の)『プレイコミック』をはじめとする青年誌などでの活躍が増えたようだ。ここでは時間を1970年代初頭まで戻し、そのころの少年マンガ事情について、少しふりかえってみたい。とは申せ残念ながら、正確で詳細な史実を述べるのは僕なんぞにとって難し過ぎる。当時の少年、いち「読者」の目に物事はどう見えていたか? という個人的な回想の域を出ないだろうことが大変恐縮なのだけれども……。



 さて。項目冒頭にある画像がその『週刊少年チャンピオン』、1971年1月4日号(2号)の表紙で、吾妻ひで
おはこれに『ラ・バンバ』第二話を発表している。僕がこのころ、
「ふむ?」
と気に留め、21世紀となってなお覚えていた作品の連載がこの時に開始していた。伴砂夢(ばんさむ=現在の、おおたぐろ定彦)による『スミレちゃん』がそれだ。



 何が気になったかというと、画像のとおり、主人公が女の子、それも「ガキ」(劇中でそう呼ばれている)、まるっきり幼い子だった点なのだ(しかしそれにしてはちょっと胸がある……)。これはかなり珍しく、よそで見かけないタイプの主役だった。



 この『スミレちゃん』には元になった(?)『ガキ・ザ・プロ』という作品が存在し(週刊少年チャンピオン1970年32号が初出か)、こちらの主人公も名前は「すみれちゃん」で、使う必殺技(花笠を投げ、敵の首をスパッと切り落とす)も同じなのだけれど、画像のとおりキャラクターデザイン(顔立ちとか)がちょっと違う。

 少年マンガ雑誌なのに主人公が女性、という作品は当時のチャンピオンにもう1つ連載されており、それが『モーレツ先生』(原作・長谷川彰、マンガ・牧村和美)だった。こちらは1970年1号から連載開始したようで、別冊少年チャンピオン1971年1月号(下の画像)はその特集号になっている。



 若い女性教師が主人公、というのも当時の少年マンガには(読みきり作品ではなく連載となればなおのこと)たぶん珍しいが、その連載は比較的長く続いた(1971年5・6号まで?)から、けっこう多くのファンがついたのではなかったかと思う。(色っぽい場面も時々あるのだが、情けない教師たちを風刺する描写も多く、ドラマは全体としてけっこう硬派な内容。)女性のロングヘアはこのころの流行で、少年の目には女っぽさと自由の象徴みたいに感ぜられたのを覚えている(中学・高校の女生徒たちはあまり長い髪をしていると校則で三つ編みとかにさせられるのが常だったから、本格的(?)なロングヘアは、成人女性でないとやりにくかったようなのだ)。



 最近になって知ったのだけれど、このマンガを執筆した牧村和美は、1960年代後半、貸本マンガの時代からすでに活躍しているベテランで、少女マンガも多数手がけてこられたようで、なるほど、魅力的な女性を描くのに長けているのも道理だったというべきか。



 で、この『モーレツ先生』特集号にも、どうしたわけか、伴砂夢による作品『ガキ・ザ・プロ』が収録されているのだった。これは、シリーズ最初の作品の再録ではないかと思われるのだけれど、こちら(黒髪)のキャラクター、「チビでイナセなオイロケガキ」(予告広告の文言)による第2話が、翌月の別冊少年チャンピオンにも掲載されたようなので、なんともややこしい。

 少年マンガ雑誌で主人公が幼い女の子、というのは、いろいろ前衛的な試みが流行していた(? これは終戦直後生まれの世代が成人し社会に発言できるまでになってきたゆえの変化だったのかも知れない)1960年代後半から1970年ころの時期にしてもけだしまだ稀なことで、僕の知る限りではほぼ同時期、デラックス少年サンデー1970年8月号に掲載された、今道英治による『チャイルドSS』(不定期連載だった?)を別にすると他に例が無いのではないかと思う。ちなみに、こちらの主人公である少女・ユキちゃん(ユキッペ)はなんと幼稚園児(!)でありながら戦車や機関銃などの実物兵器を用い、悪人を懲らしめるグループの指揮を執っており、これまたどえらく個性的なのだったが。

 で、何を言いたいかというと……。
 1970年ころの少年マンガは、1960年代あるいはそれ以前の諸作品と明らかに異質の成長を始めていたようで、そこに期待された要素のひとつに、
「魅力的な女性を描けるか?」
というのがあって、吾妻ひでおはその才を持つ、出版社にとって貴重な存在だったのではないか、という事なのだ。
 が、今になって見直すと、そうした資質が市民権を得て高く評価されるようになってくるのは1970年代も末ごろからで、1970年代はこうした事が模索や実験に終わってしまう場合が多かったのではと思える。実際、吾妻マンガでも女性が主人公のシリーズ(『荒野の純喫茶』、『みだれモコ』、『シャン・キャット』)は週刊少年チャンピオンではあまりツキが無く短い連載になり、少女が主人公である『オリンポスのポロン』や『ななこSOS』が連載された(そしてどちらもTVアニメにまでなった)のは他誌においてなのだった。(不可思議なことに、「月刊」少年チャンピオンでは『ちびママちゃん』の連載が長く続いたようで、なにはともあれこの当時、少年マンガで女性が主人公の作品は、週刊誌より月刊誌が活躍舞台に適していたらしい……。)

 『少年チャンピオン』は吾妻ひでおに当時のマンガ読者の最大公約数がどのへんにあるかを知らしめ鍛え上げたかも知れないが、その資質や才能を十分発揮させ引き出すには読者層からくる限界もあって、青年誌やSF系のマニア向け雑誌に役割をゆだねなくてはならなかったかに感ぜられるのだけれど、どうだろう。



(上の画像は、週刊少年チャンピオン1971年1月4日号にある広告。『冒険王』では恩師の板井れんたろうによる『ドタマジン太』が連載中、『まんが王』のほうでは吾妻ひでお、きくちゆきみの作品が載っていたことが分かる。1970年代初頭は、これらの月刊誌から週刊誌へと主流が移り変わってゆく時期だったように記憶する。)



まんが専門誌 ぱふ 1980年3月号

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「特集 吾妻ひでおの世界」と題して56ページにわたり特集記事を掲載。内容は以下の通り。
・マンガ(『多目的せーせーかつ入門(ぱふ版)』) 7ページ
・吾妻ひでおへのインタビュー 11ページ
・吾妻ひでお作品リスト 2ページ
・キャラクター紹介 7ページ
・評論など 28ページ



戦後SFマンガ史



(1980年8月 新評社)

 米沢嘉博による著作の1つで、吾妻ひでおはカバーおよび挿絵を描いている。上の画像(提供:大西秀明氏)はそのカバーを展開したもの。
 本書は明治時代の児童文学からその記述が始まり、1979年のSFマンガに至るまでを追跡してある。どえらい労作であると同時に、大変興味深い分析がなされた記録でもあると思う。「少女の登場する間もなかった少年マンガで、少女の役割を果たしていたのは、なんとヒーローそのものであった。当然それを救うのは、小道具、ロボット、新兵器である。」(第三章 少年マンガの爆発 個から集団戦へ向けて)といった記述などには、誰もが驚かされるのではあるまいか?



 あまりにも膨大な資料をわずか1冊の本で扱っているため、当然ながら全てのSFマンガについてもれなく記すのは不可能だったろう(例えば、もし僕が見落としたのではないとすれば、初代の『光速エスパー』(あさのりじ・作)や、『快傑アイアン』(望月三起也・作)などの題名は本書の中に無いようだ)。それでもこれが日本のSFマンガの全貌を見渡すうえで強力無比な導きとなってくれるであろう事にかわりはない。SFとしての吾妻マンガがどこから生まれてきたか、その先祖なり起源なりを知り得る書として吾妻ファンにとっては実に面白い。しかし、マンガ好きを自負されるかた全てが、基本文献のひとつとして本書に頼れるのではないかと思う。



 その場合、新評社による原書を入手するのは難しいと思われるので、現在、「ちくま文庫」から出ている版のほうをお勧めしたい(上の画像がそのカバー、こちらも吾妻ひでおが絵筆をとっている)。入手はたやすいであろうし、データの補正や追加もなされており、さらに価値が増しているからだ。



吾妻ひでお大全集

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(奇想天外・臨時増刊号 昭和56(1981)年5月15日)

*資料性のある記事としては以下のようなものが収録されている。

・吾妻ひでおインタビュー
・吾妻ひでお年譜
・新不条理解析(「不条理日記」シリーズの元ネタを推理している)
・明解吾妻ひでお辞典
・吾妻ひでおにおける北海道語の研究
・その他

また、マンガは5編が収録されている。
・「普通の日記」
・「ぬいぐるみ」
・「愛のコスモ・アミタイツ・ゾーン」
・「由紀子の肖像」
・「つばさ」

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普通の日記

*作者の当時の日常をコミカルに描いたもの。これによれば「ぶらっとバニー」は編集者が「アイデアからストーリーから全部出してくれる」のだという。

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ぬいぐるみ

「僕」は日曜日の朝、自宅の窓から奇妙な少女を見かける。その数日後、体調不良で早退し帰宅すると、路上でその少女が「僕」を待っていた。「ねえ、おにいちゃん、遊ぼうよ」と言われ、次の日曜日いっしょに遊ぶ約束をするのだが……。

*川又千秋原作。フキダシを一切使っておらず、独特の雰囲気でまとめてある。

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愛のコスモ・アミタイツ・ゾーン

大型宇宙船の船内で、「連続胃袋かっ切られ殺人事件」が発生。アズマ旅行保険支払係は容疑者の取調べを行なうが……。

*萩尾望都との合作。作者ふたりは似顔絵で作中人物となり登場している。題名は手塚治虫のアニメ映画「火の鳥2772/愛のコスモゾーン」をもじっているものと思われる。

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由紀子の肖像

(未発表 1971年の作品)

中年男が夜、家路についている。駆け足で去って行く2人の男とすれ違うが気にも留めず、家へ帰って玄関を開けると、愛娘が何者かに殺害されていた。警察は「流しの強盗でしょう ちょっと犯人たいほは むずかしいかも」と言い、迷宮入りとなった。しかし父親である男は復讐のために、あの夜道ですれ違った男達を探す……。

*最初のページの欄外に「オカルト・ミステリ」とあるとおり、娘が幽霊になって出てくる。吾妻流「あの世」の解釈が興味深い。

つばさ

(カテゴリ"11 ひでお童話集"にて既述のため割愛。最後のページに「ヒント=フェリシアン・ロプス「略奪」」と記されている。フェリシアン・ロプス(Felicien Rops)は19世紀ベルギーの画家。



アップル・パイ 美少女まんが大全集

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(徳間書店 アニメージュ増刊 1982年3月30日発行)
 『アニメージュ』は本来アニメーションに関する月刊雑誌のはずだが、こうした増刊を世に送り出した時期があるようだ。普通一般のマンガ雑誌を意識してかサイズはB5、ただし全126ページほどで当時の週刊マンガ雑誌よりだいぶ薄い。紙質はマンガ単行本の基準にならっている感じで、光沢を持つ厚紙のカバーがかけてある。
 表紙に大きく「美少女まんが」と明記されているあたりに、時代がうかがえるといえようか(現在ならば、男性読者を主に想定しているマンガの書籍で主人公が美少女だったとしても、それを断り書きすることはもはや無さそうに思う)。
 この『アップル・パイ 美少女まんが大全集』は出版的に成功したのか、徳間書店は後に単行本『アニメージュコミックス』の1つとして『美少女まんがベスト集成』を発行、これに続けて『プチアップル・パイ』と銘打ったシリーズ(雑誌扱いの単行本?)を3ヶ月に1回のペースで出すようになり、18号(1987年3月10日発行、ただし実物未確認)まで続いたらしい。
 吾妻ひでおはこの『アップル・パイ 美少女まんが大全集』で『ぶらっとバニー番外編 美少女童話集』(白黒16ページ)を発表している。21世紀になって吾妻ひでおが、日本のマンガ文化独自の美感覚のひとつであろう「萌え」の礎(いしずえ)をかためた人、といった紹介をされる場合があるとすれば、こうした時期にこうしたかたちで、可愛らしい画風などがひときわ注目を浴びたゆえか。



ひでおと素子の愛の交換日記

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(角川書店 昭和59(1984)年7月31日)

*これは新井素子のエッセイ集なのだが初出(1981年4月号~1983年9月号の雑誌「バラエティ」に連載)時に吾妻ひでおが挿絵を担当していた。ここではその挿絵のほうに重点を置いて、少し内容から抜粋、紹介したい。行頭の数字は単行本のページを表す。

25 「わたしは旅行がきらいだ」の一言が書いてある。
65 「シッポがない」会長らの似顔絵。
110『吾妻ひでお大豪邸訪問記』(新井素子らが新築の吾妻家を訪問したという記録)
120 アシスタントの面接を受けた翌日から、渋谷でキャバレーのビラ配りのアルバイトをしたという回想(これは脚色され「二日酔いダンディー」でネタに使われている?)。
157 「みにくくエロ同人誌を作る こきたない、おっさんがた」(「シベール」発行当時の事らしい?)
165(206) 保谷(ほうや)に居住しているらしい?
199 吾妻夫人によるイラスト(これは貴重だと思う)





続・ひでおと素子の愛の交換日記

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(角川書店 昭和60(1985)年2月10日)

*挿絵を担当。以下抜粋(行頭の数字は単行本のページ数を示す)。


40 故郷の小学校・中学校が廃校になること。
117 ファンクラブ会長らの似顔絵。
124 吾妻ひでお漫画大賞発表(「バラエティ」1984年7月号 応募7通?)。
136 仕事場の平面図(1984年8月号 注:仕事場をこのころに変更転居したらしい?)。
205 熱をだして、吾妻夫人が原稿代筆したいきさつ(「ひでおと素子の愛の交換日記」p.199)。



新・ひでおと素子の愛の交換日記

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(角川書店 昭和61(1986)年7月10日)

*挿絵を担当。以下抜粋(行頭の数字は単行本のページ数を示す)。


129 飼っているペットについて。
137 自作(?)料理レシピ。
175 「小学生の時 盲腸やった」こと。
212 『素子の大泉探訪』(単行本には初出が明記されていないが、このエッセイは「吾妻ひでお大全集」に写真入で掲載されたもの。ここでは写真は無く、吾妻ひでおによる描きおろし(?)の挿絵が収録されている)。
218 『あとがき日記』(吾妻ひでおが文章を書き、新井素子が挿絵を入れている)。



いさましいちびのトースター




(早川書房 1987年12月15日発行)

 トーマス・M・ディッシュ(Thomas M. Disch)によるこの作品"The Brave Little Toaster"は、その日本語訳がSFマガジン1981年12月号に掲載され、吾妻ひでおが挿絵を担当したようだ(そして日本では1981年度海外短篇部門で星雲賞を受賞している)。単行本化されるにあたって、再び吾妻ひでおがイラストレーションを描いているのだが、このお話には人間が殆ど登場しないので、吾妻ひでおの仕事としてはちょっと珍しいものになっているかも。



バイバイ スクール

Bbsc01

(講談社 青い鳥文庫 1996年2月15日初版)
 小学校高学年くらいの読者を想定しているらしい、児童向け推理小説。吾妻ひでおはカバーイラストと挿絵を担当している。か細い手足など、子供たちの体型はかなり写実的に描かれているようだ。

Bbsc02

 版型は173×111mmの新書サイズ。全校生徒がたった6名という小学校が廃校を直前にして……という物語。吾妻ひでおも、高学年と低学年の2クラスしかない(しかも1クラスは12名ほどだった)小学校へ通ったらしいのだが(『吾妻ひでお大全集』p.290『吾妻ひでお・年譜』高沢よしお・編)、どのような気持ちでこの作品の挿絵を描いたのだろう……?



マンガ家のひみつ

Himitu

(徳間書店 1997年5月31日)

とり・みきによるインタビュー集。吾妻ひでおへのインタビューは1995年9月2日に行なわれたものが収録されている。脚注によれば吾妻ひでおの休筆期間は'85年から'93年までの8年間だという。「だいたい40ぐらいになったらギャグの場合は限界なんじゃないかと思う」、「短いページのリアルなやつは少しは描いたんですけれども、ギャグ入れなくてもいいという、あれは死ぬほど楽ですね」といった吾妻ひでおの発言がある。



レモンピープル ベストセレクション

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(久保書店 2001年11月25日初版)

 吾妻ひでお作品としてはカラーイラスト1葉とマンガ1篇(『みかちゃんのぱんつ』)を収録している。版型は210×150mmで、いわゆる教科書サイズ。月刊マンガ雑誌『レモンピープル』は1982年2月号から1998年11月号までが発行されたようだ。

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comic 新現実 vol.3

Singen1

角川書店 2005年2月26日)

 『吾妻ひでおの「現在」』という特集があり、2005年1月13日になされたインタビュー等を収録。ガス屋さんの時に社内報へ投稿し(「失踪日記」p.105参照)マンガが掲載された、そのページの写真など。



秋のHOT HIT 100 ハヤカワ文庫2005

Hothit

(早川書房 2005年9月)

 これは書店の店頭にて「ご自由にお取りください」と置かれていた無料の小冊子である。文庫サイズで約64ページあるが販促のチラシ等と同じ扱いだったのか、奥付のようなもの(印刷・発行の年月日の明記)は無い。

Dokutai

 「私の読書体験記 どくたい」という題で吾妻ひでおによる描き下ろしコミックが2ページ掲載されており、
「中学生の時『路傍の石』を読んで暗澹(あんたん)とした思いに取り憑かれる 名作だけど中学生は読まない方が良いと思う」
という出だしで始まっている。作者が少年時代、SF以前にどんな読書をしていたかその片鱗がうかがい知れる。
 ハインライン(Robert A. Heinlein)のSF小説『人形つかい』(The Puppet Masters)について言及があるのだが、この作品は西暦2007年(だからこの小冊子が世に出た2年後)を舞台としているようで、そのへんに引っ掛けたのだろうか?



出家日記

Shukke

(角川書店 2005年11月1日)

 蛭児神建(ひるこがみけん)の自叙伝だが、同人誌「シベール」の頃の事(「失踪日記」p.144参照)などについて言及がある。カバーイラストと巻末の解説マンガは吾妻ひでおによるもの。


蛭児神建氏のこと


*「一九七八年 私とアシスタントの沖由加雄は怪しい謀議をこらしていた」という出だしで始まるこの回想は、何がきっかけで出会い、どのような関わり合いになっていったかが記されている。わずか4ページながら高密度な内容で、締めくくりには、こうある、
「みんな希望を持とう」。



日本ふるさと沈没




(2006年8月1日発行)

*小松左京のSF小説『日本沈没』は1973年に発表され大ヒット、映画にもTVドラマにもなった。それが21世紀になりあらためて映画化が決定したので、企画された書籍であるらしい。
 内容は、日本が沈没するとなったら全国各地でどのような事態が発生するのか? といった未来予測(?)を、21名の著者たちが、自身の故郷に焦点を合わせ、描いているアンソロジー。
 吾妻ひでおはこれに参加している。

北海道沈没記念漫画 帰郷




 久しぶりに帰郷したら北海道は沈没していた。見渡す限り広大な海ばかり。と、その時、吾妻ひでおは遠方の海上に、何やら奇妙なものを目撃するのだった。果たしてあれは……?

*科学考証の裏づけがあるSFになっている!?



月刊COMICリュウ 宣材

Ryu0

 2006年9月19日に創刊される徳間書店のコミック雑誌の案内。サイズは181×129mm、44ページ。書店の店頭にて無料配布されていたもので、安彦良和(やすひこよしかず)との対談記事を掲載(両者は月刊COMICリュウの創刊号に執筆し、また「COMIC龍神賞」の選考委員をつとめる)。
 「この原稿は「アニメージュ」06年9月号に掲載された「リュウへの道」の原稿に加筆修正したものです。」「対談そのものも、ここでは書き切れないほどの長時間となり、その内容は北海道の子供時代の思い出話から最近のお互いの仕事の話まで多岐に渡った。」と説明が付されている。



AERA COMIC ニッポンのマンガ

Aeracomic

(朝日新聞社 2006年11月1日発行)

 表紙に文言があるとおり「手塚治虫文化賞10周年記念」のムックで、その受賞者たちについてまとめたもの。版型は280×201mmのA4サイズ。吾妻マンガ『墓標』(描き下ろし読み切り、10ページ)のほかインタビュー1ページなどを収録。
 書籍巻末で養老孟司(ようろうたけし・東京大学名誉教授、第1回~3回の選考委員をつとめた)は以下のように語っている。
「よく外国人が、朝っぱらから大人が電車の中でマンガを読んでるのを見て「なんだこの国は」って感じるようだけど、「お前たちの方が足りないんだよ」って言いたいね。」

Grave

墓標


 宇宙船が、惑星へ降り立つ。船内から出てきた青年は、両腕に女を抱きかかえている。彼女は眠っているのだろうか? 青年は女を抱いたまま歩き、やがて小高い丘の上へと辿り着いた。
「見晴らしがいいから ここにしてやるか」
 青年はそう言うと、女を地面へ横たえて、酒か何かをひと飲みし、スコップで穴を掘り始める。
 と、何か固い物にぶつかったようだ。次の瞬間、奇妙にひん曲がったスコップが突然、地面から伸びてきた。
「何だこれ?」
 青年はびっくりしつつも、ここに埋まっているらしい物の正体に興味を覚え、それを掘り起こしてみることにした。重労働のすえに周囲の土をのけると、姿を現したそれはどうも人工的な物体であるらしく、けっこう大きい。
「コピー…?」
 もしやと思った彼は、それに手を伸ばし、触れてみる。するとその何かは反応して……。


*創作者としての内省が含まれているような気が、僕はした。吾妻ひでおはSF短篇を本当にたくさん執筆してきたのだろうけれど、その力量はいまだ衰えも無く健在で、むしろ若い頃にものした短篇とは微妙に違う、芳醇な深みも備わってきたのではないか?



逃亡日記

Escape

「皆さんこの本買わなくていいです! 漫画だけ立ち読みしてください」と作者自らがまえがきマンガの中で叫んでいる「『失踪日記』の便乗本」。とはいえ、僕は、面白い書籍だと思う。
(画像は表紙と新聞広告。日本文芸社、初版平成19年1月30日第1刷、定価本体1200円+税。)

 巻頭にはカラー写真が16ページあって、作者が被写体に加わり登場している。マンガにおいてならば珍しくないけれど、実写で本人が姿を見せるのはけだしまれなことで、これほど何葉も作者の肖像が収録されている図書は前例が無いのではないか? 『失踪日記』の舞台となった雑木林や公園は現地の写真のみならず地図までが掲載されており、欲するなら読者が"巡礼"を実行できるようになっている(?)。職務質問を受けた交番、はては利用したゴミ集積所まで撮影しているのだからすごい。ただ、勤務していたガス工事会社やその寮とかの写真はさすがに撮っていない。これはいたしかたないだろう。

 オマケ的に『妄想★劇場』なんて写真もうち6ページあって、見ると作者のそばに可愛いメイドがくっついている。最近作のあとがきマンガでは作者と漫才でもするかのように美少女キャラが共演しているコマがよくあるが、なるほどあれを自画像ではなく本物の作者が出演し実写でやったら、確かにこんな感じの光景になるかも知れない。

 さて、書籍の背表紙には「吾妻ひでお」と大きく書いてあるが作者によるマンガ作品の単行本ではなく、1冊まるごと作者へのインタビューを収録したものだ。マンガは、まえがき(『受賞する私』9ページ)と、あとがき(『あとがきな私』4ページ)、ほかは本文中のカット数葉だけである。
 マンガのほうは日記形式のドキュメンタリー的なもの(成人した御息女らしい人が出演している作品は、僕の知るところがもし正しければこれが唯一にして最初ではないかと思われる)。カットはかなり写実的なタッチが入っている点でちょっと異色な感じ。中でもひときわ目を引くのが『ふたりと5人』リメイク版のイメージ(p.135)で、ずいぶんアダルトな雰囲気なのにびっくり(ユキ子の表情とかはどう見ても中学生のそれじゃない気がする)。これが作者本気の"完成予定見本"なのか"ギャグ"なのか定かでないのだが本文(p.144)には「あーホント、描き直したいね、今からでも(笑)。もうネタはかたまっているんだけど。」という発言があり、リメイクが実現したら読みたいものではある。とりあえず試験的に読みきり作品で、といった形ででも執筆と公開とが実現してくれないだろうか。

 本文にはいろいろ貴重なくだりが散見される。これまで語られていなかった、過去の諸作品についての裏話などは興味深い(一部のファンジンなどでもしかしたら触れられた機会はあったのかも知れないが、そうしたものは今となっては発見し読むのがおよそ不可能だろうし)。
 単行本だと巻末に「解説」をつけているものが時折ある。プロの物書きによるそれらの文章は確かに内容の密度はあるだろう。しかし、作者自身による解説ではない、というただ一点においてのみ言えば、僕ら一介の読者の感想作文と違わないのではという気がする。ファンとしてはやはり、作者の話を聞きたい。作者というものはえてして自作の解説を好まないらしい。作品をして全てを語れていないとすればそれは創作者にとって不名誉なのかも知れない。とはいえ読者としては、好きな作品のことはどんな些細な裏話でも聞かせて欲しいものなのだ。しかし作者に負担をかけたくはない。そうした意味で、こういったインタビュー本も僕はありがたく思う。

 驚いたことにこの書籍では、奥様や御息女にまでインタビューを行い、収録している。作品からあまりにもかけ離れて作者の家庭のプライバシーを聞き出す事は望ましくないのではと思うのだが、希少価値を持つ書籍になっているのも確かなのではあるまいか。
(2007年4月19日付記:この書籍にはフランス語版が存在し、ちゃんと向こうで発売されているらしい。)



ひでおと素子の愛の交換日記(角川文庫)

(平成20年8月25日 改版初版発行)

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 これは文庫として出ていた同名書籍に加筆修正がなされ、復刻されたもの。初出であった雑誌での連載時に発表されていた、吾妻ひでおによる挿絵も多数収録されている。カラーの吾妻マンガは白黒に比せば非常に少ないので、それが読める点でも希少価値があるだろう。

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 挿絵の他に『まんがクラッシャージョウ』(初出:少年マガジン 特別別冊 クラッシャージョウ アドベンチャー・ワールド 1983年3月30日)5ページ、『21年ぶりのあとがき』(描き下ろし)2ページを収録。なお後者で明らかにされているところによれば、新井素子の似顔絵キャラクターについて本人から「怒られた」ことがあるらしい。

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 そしてここでは、そうとう久しぶりに「のた魚」が描かれている。

 この文庫は本来4冊から成るもので、以下の書籍が後に続く。

『ひでおと素子の愛の交換日記2 方向音痴がなおるわけ』(昭和62年2月25日初版)



『ひでおと素子の愛の交換日記3 ぼくのせいじゃない』(昭和62年6月25日 初版)



『ひでおと素子の愛の交換日記4 なんと!最終回』(昭和63年6月25日 初版)



 堅表紙で製本された『ひでおと素子の愛の交換日記』は3部作だったのになぜ? と思われるだろうが、その点については文庫の第4巻で新井素子によるあとがきがあり、以下の様な説明がなされている。
「えーと、この本は、以前単行本で出しました、『新・ひでおと素子の愛の交換日記』って奴の後半分と、以前『SFマガジン』に連載した、『正しいぬいぐるみさんとの付き合い方』って原稿と、その他、あっちこっちの雑誌に書いたエッセイ、および、書き下ろしのエッセイで構成されております。(中略)三冊を、文庫にしようとした時、何せこの本はイラストが半分を占めますので、一冊の単行本が素直に一冊の文庫本になってくれず、こういう、訳の判らない、いわばおまけみたいな巻ができてしまったのでした」
 したがってそもそもこれは新井素子のエッセイ集であって、吾妻マンガの本ではないのだが、挿絵の多くを吾妻ひでおが担当している事と、当時の吾妻ひでおを取り巻く業界人脈図といったものがわかり、興味深い。
 また、新井素子が原作という珍品マンガ『のた魚物語』(全7ページ)が文庫の第3巻には収録されており、新井素子によるシナリオも同時収録されているので両者の比較が可能になっている。



失踪入門



(徳間書店 2010年3月31日 第1刷)

 表紙を見ると「吾妻ひでおにインタビューした本」と普通は判断するのではなかろうか? しかしひとことで言うならこれはむしろ「中塚圭骸についての本」かと思う。前者が最初の構想であったとすれば、私的な読後感想に過ぎぬけれども、ほぼ完全に失敗している気が(僕は)する。
 この大失敗は冒頭で発行者みずからがある程度認めており(p.6)、「本書の取扱説明」には次のように書かれている。

<●「失踪入門」の企画は、二〇〇五年にベストセラーとなった『失踪日記』の熱まだ冷めやらぬ時期に始められました。当初は失踪生活での具体的なハウツーを中心に、インタビューを重ねていく予定でしたが、いつしか座が暴走モードに突入。インタビューという形式が早々に破綻したことをご報告いたします。>

 また、話がSFに及ぶとそれを制止修正したりもしているので(p.160、184、209、221など)、SF領域から吾妻ファンになって久しい読者はこのへんに失望し「カネ返せ!」と怒るかも知れない?
 これは『月刊COMICリュウ』に2006年9月(創刊号)から2009年11月号まで連載された記事を加筆修正しまとめた本であるらしいのだが、第1回のまえがき(p.9)によれば、

<失踪・自殺未遂・ホームレス・アル中とさまざまな困難を(中略)冷静かつ明るく描きあげた(中略)吾妻先生を師匠と見たて”ハウ・ツー・人生”の教えを請おうというのがこの本の企画意図>

なのだそうだ。そしてその「入門者第一号」 となったのが、中塚圭骸氏であるらしい。
 で、その中塚圭骸氏とはいったいどういう人物なのか、僕は全く知らなかったのだけれど、最初にちゃんと紹介がある。それによれば、

<一〇代からのアズマニアで、(中略)香山リカさんの実弟で、(中略)歯医者の地位をなぜかドロップアウトして、(中略)よく出来た奥さんがいるのに、現在は死にたい>

という人であるとのこと。それで、

<「失踪入門」なる企画を進めるならば、他にないぐらいの適任の失踪候補者であろう>

と、『月刊COMICリュウ』側が判断しお膳立てをしたようだ。僕の理解がもし正しければこれは、「吾妻ファン」でかつ「懊悩している人」の代表、として中塚圭骸氏に白羽の矢が立った、という事なのかも知れない。この人選が適切だったのかどうか分からないが、もし「吾妻ファン代表」というだけだと(『失踪日記』で初めて吾妻マンガを読んだような)普通一般の読者と共通する部分が限られてしまいそうに思える。いっぽう、「失踪してしまいたいと切望するほどに悩んでいる人」というだけでは(それでも多くの読者に共感を呼びやすいかも知れないとはいえ)この企画に適合するかどうかとなると、疑問もある。中塚圭骸氏は、その2つの要素を同時に(それもかなり深く)持つ人物には違いない。なにしろ「はじめての精通が『ふたりと五人(引用者注:原文のまま)』を読んで」(p.115)であり、薬の服用は既に二〇周年を迎えて(p.45)月に一万八〇〇〇円もかかっているというのだ。
 たとえば太宰治の本を読んでどのくらい感動しまたその内容に共感をおぼえるかは、読者の資質によってそうとう大きな個人差があるのではと思うのだけれど、そういった事と似て、この書籍もいささか読者を選ぶ内容になっているかも知れない。しかし吾妻ひでおは自身を(中塚圭骸氏と)「同じ中毒持ち」とし(p.160)、「おたがい、ずっと異常でがんばろうな」と氏を励まして(p.252)この長い長い会談を締めくくっている。
 しかし、吾妻ひでお自身に関する独白もこの本にはあれこれあって、「下宿してたときに、トイレ行くの面倒くさいからコーラのビンとかにした」(p.25、これは『ふたりと5人』で主人公おさむが似た事をやらかしている)だの、『二日酔いダンディー』では(十二指腸潰瘍の発作で)全然描けなくなって編集者が描いてただの(p.86)、「お笑いの道もめざしてた」(p.111)だの、子どもが生まれて以来過激なエロは描けなくなった(p.187)だの、面白い話が収録されている。やはり、吾妻ひでおを知るには、読んでいろいろ得るところがある本になっていると思う。
 (蛇足だけど僕は、「いいんじゃないの」という口癖が最後の最後、ゲストに高野文子も参加しているページ(p.252)に突然出てきたのを読んで、自分が無気力プロで『オリンポスのポロン』のベタとかやらせて戴いていた日の事を思い出し、「あっ、先生、31年前とやっぱり変わってない!」とすごく驚き、そして、何だかとっても嬉しかったです。)

ホームレス再入門



(描き下ろし)

「不況の世の中 皆さんもいつ仕事や住居を無くすかも知れません 今回は心の病んだこの三人でホームレス再入門してみましょう」
 と語る作者・吾妻ひでおに率いられ、おかしな訓練が始まった。ところが……。

*書籍『失踪入門』の巻末に収録されている6ページの吾妻マンガがこれ。最後のコマに「主張」があって、絶妙。これは苦笑させられる。



 なお、本書「失踪入門」には文庫版(2011年12月15日 初刷)も存在する(上の画像はそのカバー)。
 内容は同じであるようなのだが、「入門・卒業・継続審議」というあとがきが付加されている(筆者不明、二〇一一年一二月の日付あり)。「不安から目をそらさず、それでも笑って、明日を目指そう」という精神は、連載時・書籍刊行時よりも、大切なものになっているのではないかと思い、今回の文庫化にいたりました」とある。



文藝別冊 総特集 吾妻ひでお



(河出書房新社 2011年4月18日発売)

 これは雑誌扱いの出版物ではないかと思われるので、早めの入手をおすすめしたい。大きさは210 × 148mmのいわゆる教科書サイズ、全238ページ、税込み定価1260円。
 題名のとおり吾妻ひでおの人と作品について概観できるようまとめたもので、非常に優れた内容ではないかと思う。そうした出版物がこれまでに存在しなかった訳ではないゆえ、先行するそれらと構成ないし内容で重複する部分も多少はあろうけれど、今現在最も入手しやすい研究書としてやはり、けだしこれにかわるものはないだろう。
 また、一度も単行本などに収録された事が無い作品が幾つか収録されていたりする(!)ので、その点でも極めて貴重な出版物と言える。

愛のネリマ・サルマタケ・ゾーン



 これは萩尾望都との合作マンガで、トビラからうかがえるように『不思議の国のアリス』っぽい奇妙な掌編。萩尾望都との合作は、『吾妻ひでお大全集』(1981)でも実行されており、それを踏襲したかに思える企画ではある。
 「サルマタケ」は松本零士の下宿ものマンガ『男おいどん』(1971~1973)に登場した架空のキノコ(実際には汚れ物の「サルマタ」に発生するオレンジ色のカビだった、とか読んだ記憶がある)のはずだが、吾妻ひでおの部屋はそれを思い出させるような「不思議の国」になっている、という事だろうか?

チーねずみ



 これは非常に珍しくかつ貴重なマンガで、その数奇な運命については本書に以下のような解説がある(p.62)。

”[初出]未発表 1980年5月執筆(?)

2002年、まんだらけのオークションに突然原稿が出品されたのち所在不明となった、幻の作品。2010年、作者宅からコピーが発見され、復元された。企画段階で頓挫した『日刊漫画』(日刊漫画社)のための原稿が、紛失/流失したものと推測される。”

 ゆえあって引越しをした父と息子が住むべく借りた家には、なぜだかアミタイツはいてる娘が待っていた……という、困るような、うれしいような、ややこしい事件で幕が開く。連載されシリーズ化が実現していたらどんな物語になったやら、まことに興味深い。

私の読書体験 どくたい

 早川書房が発行した小冊子に掲載された自伝マンガで、この再録も貴重と言えるだろう。

変容 transfiguration



(第2回心のアート展(2010年4月21日~25日)出展作品)

 とても狭い私の世界……というナレーションで始まる、1ページの作品。題名のとおり変身譚なのだが、ここに描かれる不可思議な世界は、単行本『地を這う魚』で見られる独特な光景にも通じるような印象を受ける。

すぷりんぐ



 これはその『地を這う魚』で言及がある、吾妻ひでおデビュー前の作品で、自身による解説が付されており、大変貴重だろう(『チーねずみ』と本作は、今回が初めての内容一般公開になるのではないかと思われる)。

虚空のモナー

 単行本未収録の全10話を収録してあり、初出の当時にその連載を知らなかった者(僕がそうなのですけれど)にとっては非常に読むのが難しかった作品で、これまた大いにありがたい。

乞食



(野生時代 2005年10月号)

 題名には「ほうろうしゃ」とルビがふられてあるのだが、作者失踪中の経験談か。ユーモアとペーソスの効いた1ページの作品。

 で、これらの他にも、吾妻ひでおによるマンガとしては、

SF玉手箱
池猫
陽はまた昇る
おおおおお

の4編が収録されているのだが、さらに加えて、ご息女(アシスタントB)のマンガまでが2ページ読めるからすごい……。



 また、活字の部分でもいろいろ面白い話が載っており、カブラペンからGペンに切り替えた事情や時期(p.21)、『地を這う魚』で画風にジョン・テニエルの挿絵が影響を与えているらしいこと(p.25)、なぜ『シベール』の表紙を黒一色にしたのか(p.34)、『失踪日記』映画化でつまづいた点(p.151)など、さまざまな話題が取り上げられているようだ。

注意:以下は全くの蛇足で、別にこの図書の紹介でもなければ感想でもなく、雑談であります

 え~、本書のインタビュー(p.34)に、映画『シベールの日曜日』がNHKで放送され、吾妻ひでおがそれを観た……と読める(?)くだりがあるけれど、これは史実と少し違うかも知れない(調べないと分かりません)。

 NHKで放送された事も確かにあったようで、例えば東京では(新聞縮刷版によれば)1974年9月16日(月)PM 2:30~4:10に「字幕スーパー」でNHKの1chが放送したらしいのですが、この日付だと、同人誌の『シベール』が発行された1978年秋の「ちょっと前」というには離れているように思うんです(とはいえ、NHKが他の日と時刻に何度も放送した可能性はむろんあるでしょう)。

 一つの仮説なのですけれど、もし、吾妻先生が仕事「場」でこの映画を観たのが最初だった場合は(そしてそれが下記の日の事だったとすると)、これは民放で流れたバージョン(俳優による日本語吹替えがなされていたと思う)であるらしいんですね。

 既にこのサイトで書いたかと存じますが僕は偶然その時(朝日新聞縮刷版によると1978年7月14日(金)東京12チャンネルPM10:00~11:40で放送されたらしい)に無気力プロへお手伝いに来ていて、そこで初めてこの映画を観まして、放送が終わってからアシスタントの沖さんが先生に、
「どうですか? 女の子が泣き過ぎたですかね?」
といった意味の質問をされていたのを覚えているんです(僕も先生の御高見をうかがいたかったので先生を見つめたのですが、残念ながら確か、先生は考え込むように無言のままで何も仰られませんでした)。

 ちなみに、その時お手伝いさせていただいた作品は、『やどりぎくん』(『ぐーたら哲学』1978年9月号)と『オリンポスのポロン』(『パンドラのつぼ』1978年9月号)か、ふらふら少年漂流記(少年チャンピオン1978年9月4日号)の、いずれかだったと考えられるんですが、はてさて。

 もし、この映画が、吾妻マンガに影響を及ぼしているとすれば、その年月日、

「吾妻ひでおが『シベールの日曜日』を初めて観たのはいつだったのか?」

といったデータにも、意味と価値があるかも知れませんね。具体的な例をあげますと、『エイト・ビート』(No.25 雪の日の物語)で主人公とネコイヌが、泣いている少女を見、声をかけたのがきっかけで事件に巻き込まれるのはこの映画の影響なのかどうか? なんて推理ができるかな、と。

 あの時、まだ二十歳にもなっていなかった沖さん(や、僕みたいな読者)が『シベールの日曜日』を観て感動したというのは、吾妻先生の感動と、次元も質もかなり違ったのかもと今になって考えるのですが、それもまたの機会に。



21世紀のための吾妻ひでお



(河出書房新社 2012年1月30日初版発行)

 奥付はともかく、実際には1月26日に発売されたようである。
 カバーの写真(モデル:うしじまいい肉)が写真だし、監修はマンガ家の山本直樹による、ときたので、
「ひょっとすると、吾妻マンガからエロティックな作品ばかりを集めたのか?」
と期待した(ろくでなしオヤジ読者の先入観なんてそんな程度……)。が、どっこい、内容は書名のとおり、「21世紀のための」ものなのだった。
 何が21世紀かと言うと、読者対象がそうなのである。本書の「まえがき」によれば、
”2005年の『失踪日記』で吾妻マンガに興味を持った若い読者が過去の作品を読もうにも多くが版切れとなっており、読みたくても読めないのは理不尽じゃないか、という編集さんの提案”
があって、"Azuma Hideo Best Selection"(本書の副題)が世に問われるはこびとなったらしい。そこで収録されたのが、以下の作品群。

やけくそ天使
*オレたちには明日があ~る~さ~
*えすえふハンターそら来た
*芸がのたうつ温泉芸者
*むし暑い夜にはスーパーマン
*まだ生まれてない阿素湖みどりのお話

スクラップ学園
*なるほど これがアル中さん
*く くら~
*パトスってふんでも死なないのよね
*聞かせてよ くぬやろの歌
*忘年会にはブラックホール

どろろん忍者
*秘術・葉っぱちょんちょん
*くノ一るみ子ちゃん
*白いくつ下が好き
*しんしんしんしのしゃこーじょー
*ですこででいと
*たそがれは忍者の時間
*とってもよくとぶ忍者ダコ
*忍者の正しい青春
*ぴかぴか忍者
*よくわかる忍者のるーつ
*どろろん流 マンガのかきかた

どーでもいんなーすぺーす
*恍惚都市
*いもむし以上

Dr.アジマフ ロボット連れて

不気味が走る

ちびママちゃん
*兄貴は二枚目!?

 これらの作品のうち、今回はじめて単行本へ収録されるのは『ちびママちゃん』の1本のみ。だから、吾妻マンガのファンとなって久しい読者は、自分が所有している本と、内容が殆ど全て重複し、がっくりさせられるかもしれない。
 が、たとえ1作だけでも単行本に初収録されるものが含まれているのは貴重だ(もしも初出当時の掲載誌を入手して読もうとしたら、いったいどれほど予算と手間が要求されるか分からないし、あまつさえ実現できない可能性もあるだろう)。それに何と言ってもこれは、21世紀になって初めて「吾妻ひでお」を知った若い読者のための書籍なのだ。既に単行本になったことがある作品でも、その単行本が今現在、すんなり入手できないようでは、そういう人たちが困ってしまう。
 こうした事を考えると、本書のように再録と初収録とを織り交ぜて、かつ複数のシリーズを概観できるようまとめられた出版物こそは、むしろこの21世紀にあって時宜にかなっているのかも知れない。なろうことならシリーズとして出版が続き、かつ価格が1000円未満になったらより良いのでは、などとつい願わずにはおれなかった。
 収録する作品の選出にあたって、監修の山本直樹はたいそう悩んだようだ。そのあたりのことは本書の巻末にある「全作品解説」へ記されているのだけれど、氏はここで興味深い分析をしている。
”長いキャリアの中でも、だいたい1970年代後半から1980年代前半にかけて、吾妻マンガが特に圧倒的な存在感でマンガマニアどもを捕らえて離さなかった数年間というものがありました。そして今回選ぶにあたって久々集中的に読んだ結果、その期間をさらに「やけくそ期」「不条理期」というおおまかな二つの時期に分けて考えることができるのではないか?という私見を持つに至りました”(p.202)
という。それで、
”その二つの特性が微妙にブレンドされた境目、シャケの皮と身の間の茶色い部分みたいな、ウナギの皮と身の間のぬめっとした部分みたいな絶妙に美味しい作品群の中、そこからさらに選りすぐりに選りすぐり、選ばさせていただきました”(p.204)
とのこと。
 そうした絞込みが行なわれれば当然、収録内容には大きな偏りが発生する。が、計算したうえでの偏りなのだった。「全作品解説」のしめくくりに、山本直樹は以下のように書いている。
”1980年代後半以降のギャグマンガで育った若い読者から、吾妻マンガの「不条理」はどう見えるのか、とても興味があります。”(p.221)
 1980年生まれの人も、今は三十路に入っている。もはや学生ではないし、と言って、もちろん老いてもいない。
 本書のカバーでモデルの衣装を誰が選んだのか知らないが、いんちきセーラー服(白線がレースになっていたりする制服の学校なんぞ現実にはあり得まい)と奇妙な賑やかさにあふれている装束は、なんとも意味深長だ。
「萌え、なんて所詮は、青春を模造した、回顧のまがい物」
とか皮肉ってるみたいに僕には見えるんだけど……?
 ともあれこれは毒入り書籍だと思う。
 なんたって吾妻ひでお自身による巻末の「あとがき」が強烈だもんね~(読めばわかります)。

蛇足:『なるほどこれがアル中さん』の解説で、
”菊地成孔さんを見るたびにこの先生を思い出してしまう”(p.209)
とあるのだけれど、もし僕の記憶が正しいとすればカウンセラーの先生は、当時に東京大学の学生で吾妻ファンであった或る人がモデルだったようだ。この事は『季刊 SFイズム』で猫林伸彦が書いていたと思う。



ポスト非リア充時代のための吾妻ひでお



(河出書房新社 2012年4月30日発行)

 (この書籍は「関連出版物」というよりも、れっきとした吾妻マンガの「作品集」かと思うのですが、複数のシリーズから選り抜きを行なって1冊にまとめてあるので、やや特殊なものと考え、このページで紹介しています。)

 実際には4月21日ころ店頭に出たようだ。コシオビに読める文言の通り「吾妻ひでお究極のベストセレクション第2弾」。監修者の菊地成孔氏(マンガ好きな人には深夜TVアニメ『LUPIN the Third 峰不二子という女』の音楽で知られているだろうか?)によって”よりぬき”がなされた、この本の収録内容は以下のとおり。

マッドくん
*悪い宇宙人をやっつけろ!!
*地球一の科学者は誰だ!?
*大地震の謎
*宇宙のドレイ商人
*ひどく貧乏な怪物たち



あめいじんぐマリー

魔ジョニアいぶ
*今晩は! 魔女です
*神の試練
*宿無し魔女
*社内恋愛ゲコ
*健全社内TV

幕の内デスマッチ!!>(Part8)

ハイパードール>(No.9)

プリティギャルズ
*好ききらいラミちゃん

ユーカリ荘物語>(No.1)

仁義なき黒い太陽

るなてっく>(No.2)

<名匠>

 これらのうち『名匠』は、これが単行本での初収録になる(後述)。
 また、収録された単行本が現在では絶版になっている作品も含まれており(『魔ジョニアいぶ』、『幕の内デスマッチ!!』、『仁義なき黒い太陽』など)、『失踪日記』以後に吾妻ファンとなった読者にとってこの点とても助かるだろう。

 作者たる吾妻ひでおはこの書籍の「あとがき」で以下のように述べている。

”菊地さんがセレクトしてくれたこの吾妻本、「爛熟期」はかなり言えてます。描くものはもう描いたのでちょっと落ち着きを取り戻し、読者サービスしてます。(中略)んで爛熟期の先は腐爛期(引用者注:原文のまま)で、(後略)”

 『21世紀のための吾妻ひでお』では1977年から1980年の作品が収録されたが、この『ポスト非リア充時代のための吾妻ひでお』では1979年から1988年の作品が収録されている。偶然そうなったのかも知れないがこの点、「第1弾」の次にこの本を読んでも時系列での混乱はけだし少ないのではないだろうか。

名匠



(漫画エロチスト増刊号 Crescent No.1 1988年9月)

 真昼、夏の公園だろうか、若い女がソフトクリームをなめながら歩いている。と、そこへ、いかにも怪しげな若い男が正面から近寄ってきた。
「お 危いヤツだな」
 ふてぶてしい位に平気でいる女に向かい、男は何やらりきんで、奇妙な動作をしている。
「気功であやつって脱がせ、一発とゆーハラか 今日お前で三人目だ」
 女はなおも平然としているが……。

*雑誌に掲載されたものから復元したのか、やや画質が荒いのは惜しい。
 性に熱中するあまりそれが趣味みたいになってしまい、道を究める(?)べく精進するようになった者たちの滑稽なありさまは吾妻マンガに時々描かれるように思う。『やけくそ天使』の頃には性が直接そのままギャグになっていたのに対し、ここではちょっとひねった仕方で扱われており、作風の変化という点でも興味深い。



よいこのための吾妻ひでお



(河出書房新社 2012年7月30日発行)

 実際には7月28日ころ発売されたようだ。コシオビに「吾妻ひでお究極のベストセレクション第3弾」とある。収録作品は以下のとおり。

二日酔いダンディー
*ダンディー登場

タバコおばけだよ
*嫌煙権
*大読書
*とびこえられない水たまり
*パン食い競争
*テレビ出演
*おもちはのびる
*住みごこちいい所
*友情

ざ・色っぷる>(第6話)

ラ・バンバ>(最終回)

エイト・ビート
*探偵もらくじゃない

きまぐれ悟空
*終わりのはじめ(3)

セクシー亜衣
*お見合い狂騒曲!

おしゃべりラブ
*メタモルフォシス伝

ふたりと5人
*そーれつババぬき

シッコモーロー博士
*モーロー病院大繁盛

ネムタくん
*恋の大手術

みだれモコ
*秋はセンチメンタル

美美
*隙あり!
*ナンパしてます

チョッキン
*あじましでおの内幕

パラレル狂室
*くせ

不条理日記
*立志篇

 これらのうち、『ラ・バンバ』(最終回)は、今回が初めての単行本収録となる。
 また、かつて単行本に収録された事があるものの現在では絶版となっている作品も多く含まれているので、大変貴重だろう。
 更に、これ自体が珍しい書籍になっているのではないか? と思う。吾妻ひでお作品の中から「少年マンガ」を中心に選び、収録してあるからだ(幼年誌みたいなえらく可愛いカバー写真になっているのもうなずける!?)。



 吾妻ひでお作品の単行本や選集が発売されると、たいてい、『不条理日記』以降(そして1990年以前)の作品のみを扱っているか、SFないし美少女だけ、という内容になる(ような気がする)。
 そうした選り抜きが間違いだとかと抗議をしたいのではない。
 いつも「少年」が黙殺されてしまう点に落胆させられるのだ……。
 これは出版が商売である以上、仕方のない事だろうとは思う。一番人気が高く、売れそうな所が最優先で扱われるのは無理もないだろう。
 吾妻ファンとしてはとにかく本が出るというだけでもう欣喜雀躍(きんきじゃくやく)なのだけれど、「またかい……?」という軽い失望も何度か味わわされてきたのが正直なところ。
 だもんで、この書籍を紐解いてみた時には「おお!?」と驚いたのでした。
 また、いささか手前ミソみたいですけれど巻末の「全作品解説」で選者とり・みきが『ふたりと5人』について、”『ハレンチ学園』と『おそ松くん』を合体させたような話”と述べている(P.227)のにも驚いたのでした(見ろ見ろ見ろ! 僕だけの思い込みじゃ、ないじゃん!?)。
 ……何の話だっけ?
 あっ、「あとがき」では吾妻ひでお自身による当時の裏話がこれまでになく色々と書いてあって、これまた貴重で面白い。とり・みきの投稿先が某出版社であった事を不思議に思っておられるようなくだりがある(P.234)のはちょっと意外でした。だって、先生、夢中になってるマンガ家と同じ雑誌に載りたい、っていうのはファンたる者の夢ですよ! いや、とり・みきが何を考えたかは知る由もないですけれども……。僕みたいなヤツでさえ最初に投稿した先は「チャンピオン」だったし(一次選考しか通れなかった)。そのあと同じ出版社の「ひとみ」へ投稿して3度くらい努力賞をとったら編集部から電話がかかってきて、「(あなたは)少年マンガのほうが向いてるかも知れませんね」とかすごく優しく教え諭されて。それでも懲りずにまた同じ出版社の「エレガンスイブ」へ投稿したら最終選考まで残って、それで……って、そんな話、この本と何も関係無いじゃん!
 まああれです、才能と実力のある者だけが、そういうファンの夢を実現できるわけで。
 脱線ついでに書くと、無気力プロ出身の沖由佳雄さんの場合は事情がちょっと異なります。既にこのサイトで書き散らしたかも知れないけれど、僕は沖さんに、少年誌で航空機マンガを執筆なさるべく目指したら良いのでは? と大きなお世話をほざいた経験があるのです。当時は、松本零士の「戦場まんがシリーズ」とかが一般的な読者たちから広く支持され知られているようだったし、戦記マンガは充分「いける」筈だ、と思ったんですよ。それに何といっても沖さんの航空マニアぶりは月並みなレベルではなくて、もし僕の記憶が正しければ、或る有名な少女マンガ家(その人の作品はTVアニメ化されてたいへんな人気がありました)から、資料を貸してくれと頼まれた経験さえあった位なのです。しかし、
「少年マンガは、もし俺にその実力があったとしても、やりたいと思わない(んだ)」
というのが沖さんの返事でした。もったいないなあ、と思ったのを僕は今でも覚えてますが……。けど、こういうお節介は、マンガ家よりも編集者を目指す人間が述べるべき性質のものだったのやも知れません。
 ともあれ、この本で吾妻ひでおの「少年マンガ」を幾つも読み返していると、自分がまだ学生だった頃の気持ちがだんだんよみがえって来ました。「ああ、僕も何かマンガ描きたい」という欲望が、ムラムラこみ上げてくるんです。
 吾妻マンガの少年むけ作品はひょっとすると、ごく普通の大部分の読者より、「自分もマンガ家になりたい」と夢見るようなタイプの読者に対して、ひときわ強烈な力を及ぼす所があるのでしょうかね……。



さまよえる成年のための吾妻ひでお



(河出書房新社 2013年4月30日発行)

 実際には2013年の4月25日に発売されている。予約受付の段階では「いけない大人のための吾妻ひでお」という仮題になっていたみたいなのだけれど、最終的にはこの題名で世に問われることとなったようだ。



 "Azuma Hideo Best Selection"シリーズ第4弾たる本書は「ロリ・エロ分野」に特化(監修者・町田ひらく)。本書に収録されている作品群は以下の通り。

るなてっく
*外伝1

<MY ANIMATION お医者さんごっこ>
*これは書籍というか雑誌の増刊号である『PAPER NIGHT』に収録された、全部で52コマの、いわゆるパラパラマンガ。巻末にある吾妻ひでお本人の「あとがき」(p.231)によれば「所々、私のじゃない絵が入ってます」とのこと。

トラウマがゆく!
*インタビュアー
パラレル狂室
*落とし物
マイ・タウン
プランコ君
*ファンタジア
<ひでお童話集>
兄妹
愛玩儀式
夜のざわめき
あづま童話
*さとるの化け物
アニマル・カンパニー
*野菜なんかもこなします
やけくそ天使
*インラン1番 電話は2番
*終わりだけど終わんない

<レッドオマンGO!>
*この作品は今回が初めての単行本収録となる(後述)。

真絵知くん
*その1
ときめきアリス
*アリスはこれはおかしいと思って
コスプレ奥さま
*ぼくは王子だ…
つばさ
夢の少女
赤い風
陽射し
暗い日曜日




すみれ光年前史
すみれ光年

 吾妻ひでおは1973年、定期的に青年マンガを描き始めており(上記の『アニマル・カンパニー』がそれ)、そこから起算すれば、吾妻マンガにおける「エロ」は、ある日突然始まったというワケではないように思う。そもそも「エロ」の一歩手前になるだろう「エッチ」――どうにか、まあ、未成年に読まれても深刻な危険はなさそうな性描写――は、1972年の『ふたりと5人』で既に始まっていたのだし。
 が……。
 「ロリ(ロリータ趣味)」の「エロ」となると話は別で、『オリンポスのポロン』が連載終了した直後、1979年に同人誌でこっそり発表された『赤ずきん in わんだあらんど』あたりで前触れも無くいきなり始まったみたいな印象が(僕のような一読者から見ると)当時は、あったように記憶している。もっとも「ロリ」という言葉が、「未成年」の「若い娘」――セーラー服の女学生とか――を指すとすれば、これまた『アニマル・カンパニー』で早くも登場しているし、それ以前の昔からあまたの人々によって"女学生が登場するエロ"は創作されてきたはずなので、主題それ自体としてはべつに斬新ではあるまいと思える。僕がこの段落で「ロリ(ロリータ趣味)」の「エロ」と言うのは、まだ初潮すら経験していないであろう年齢に見える、少女というよりも幼女に近いキャラクターが性的な対象として描かれている作品の事なのだが(よってここでは「ロリータ趣味」ではなく、「ペドフィリア」っぽい「エロ」と言うべきか?)。
 それゆえ、言うまでもなかろうけれど、吾妻マンガの「ロリ」で「エロ」な作品郡の価値は、それが女学生を登場させているような場合ならば、物語やギャグ、幻想の独創性にあるだろう――と僕は思う。それらの内容を持たず、単に女学生が登場するだけの「エロ」なら昔から今に至るまでおびただしく作られているはずだし、その殆ど全ては使い捨てにされ、作品として保存されて残ることもたぶん無いだろうからだ。
 それはさておき……。
 『さまよえる成年のための吾妻ひでお』収録作品で僕が最も、あらためて注目させられたのは『夜のざわめき』だった。この当時(1980年)ちょっと珍しい内容だったのでは? と思えるのと同時に、「おそらくこの頃には見られず、SF的なギャグであった――しかし今では現実になった(!)――要素」が散見されるからだ。それをもって、吾妻ひでおの未来予知が的中した、とかと言うならばいささか大げさであるとしても、やはり気になる。

注:以下、作品の内容や結末に言及しています

 例えば"人造美少女"の一種として登場する、身体の半分が猫みたいな「動物型」は、同人誌マンガならば当節、珍しくも無い位に普及しているのではないかと思う。植物型とかでさえ描く人はいるようだし。そのうえ、見た事が無い人には信じられないかも知れないけれど、下半身が大蛇になっている美少女や美女を主人公にしたエロ同人誌を、(大真面目の本気で)作っている実例すらもあるようなのだ。
 さらに、男性が女性へとその身体が変わる展開にしても(『夜のざわめき』の場合は、狐ノ間和歩のマンガ作品(?)からヒントを得ているかも知れないのだが)、最近は「女体化」としてこれを描く人たちが存在する(性転換手術というものは昔から現実に行なわれているが、創作におけるそれは外科手術と違い、生殖や妊娠その他の機能まで付加や変更が可能であるという設定らしい)。
 巻末の『全作品解説』には監修者による、「世の助平達は、自分の求めるエロをあらゆる所から発掘してきます」という言葉があるけれど(p.228)、いやはや人間の、性に対する無限とも思える想像力や執念というものは全く、僕らが認識しているよりもはるかに強力なエネルギーを持っているんじゃなかろうか……?
 こういった、性についての幻想は、"ホムンクルス(= 人工生命体)"であれ、"ケモノ娘"であれ、"モンスター娘"であれ、"人外(じんがい)キャラ"であれ、吾妻ひでおの場合には、SF的な発想の延長として生まれたものなのかも知れない。しかしそれにしても今から30年以上前にこんなアイディアを、作品にまで昇華して命を与え、ちゃんとした物語として描ききっていた漫画家はやはり、ちょっと他にいないんじゃあ……。

レッドオマンGO!



(映画ファン 1977年4月号)

 巨大な怪獣が出現し、建物に襲い掛かる。宇津井博士の要請で、百恵はレッドオマン一号へ、友和はレッドオマン二号へ乗り込み、緊急発進するが。

*円谷プロによる『レッドマン』という特撮番組(1972年)があるのだけれど、もちろんこのマンガはその作品とまるっきり何の関係も無い……。
 1977年当時の無気力プロでは深夜に原稿が執筆され、朝になるとTVをつけてホッと一息、仕上げを行い原稿を完成する、というのがいつものパターンでした(少なくとも僕がお手伝いさせていただいた時はそうだったのです)。で、そのさい朝にチャンネルを合わせるのがなぜか子供向けTV番組の『おはよう! こどもショー』。
 『レッドマン』は、この『おはよう! こどもショー』の中で放送されていたミニ番組だったので、そのような事情から、吾妻先生は『レッドマン』を覚えておられて、パロディのネタにされたのではなかろうかと……(1972年当時すでに「無気力プロ」が存在していたかどうかは存じませんけれど、深夜に執筆するパターンは定着していたのでは、と思うんです)。しかしこの『おはよう! こどもショー』は、日本テレビ系列で放送されていたんですよね。
 じゃ、なぜ「この企画 TBSで」うんぬん、という台詞があるんだ? という事になります。
 これはたぶん、当時にTBSが「赤い」シリーズのTVドラマを放送していたゆえでありましょう。1974年から『赤い迷路』、『赤い疑惑』、『赤い衝撃』と続いて、これらに宇津井健、山口百恵、三浦友和らが出演し、かなりの高視聴率だったらしいのです。
 やはり台詞にある「フェイドイン」というのは英語としては奇異に聞こえるかも知れませんけど、TV番組のロボットアニメ『勇者ライディーン』(1975年)で、主人公が操縦席へ搭乗するさいに(その乗り込み方がちょっと変わっていたためでしょう)言っていました。それにならったのではないでしょうか。
 この『勇者ライディーン』だと主役ロボットは変形しますが、合体はしません。合体についてはやはりTVアニメである『ゲッターロボ』(1974年)に先例があるので、こちらがヒントになったのではと思われます。
 巨人(あるいは巨大ロボット)が怪獣と闘う、言うなればプロレス的な要素のあるショー(英語だったら「番組」はこのように訳される)は、とどのつまり幾分かはサディスティックな見せ物であろう、といった風刺かも知れませんが、それにしてもこの「合体」と「変形」は、な、なんという……。



あるいは吾妻ひでおでいっぱいの吾妻ひでお



(河出書房新社 2013年9月30日初版発行)

 例によって、奥付の日付より数日早く書店に出たようだ。「吾妻ひでお究極のベストセレクション第5弾」。



 本書の収録内容は以下のとおり。

吾妻ひでおのみたされた生活
普通の日記
Dr.アジマフ 安全着陸
Dr.アジマフ 懺悔録
都立家政の長い午後
不条理日記
*回転篇

メチル・メタフィジーク
*明日なきえすえふ漫画家入門
*星雲賞の正しい使い方
*まっどさいえんてすとは死なず
*それゆけタイムマシン
*シンポジウムの夜はふけて
*どっこい超人

るなてっく
*外伝2

偉大な種

どーでもいんなーすぺーす
*少女と犬と猫とブタと馬と牛と……

ひでお童話集
*神様

プランコ君
*神様もつらいが人間もつらい
*チマチマまんぐわ!!

戦う日曜日
夏休み日記
*これらの2作品は今回が初めての単行本収録となる(後述)。

狂乱星雲記
*小宇宙

銀河タクシー69
みだれモコ
*きまぐれモコ

吾妻ひでおの MAD SCOPE
*恋のぼんちシート

猫日記
スクラップ学園
*ミャアちゃん官能写真集 出版記念パーティーの夜はふけて
*無気力は強い!

やけくそ天使
*でたらめ



 この本は珍品だと思う。
 「まえがき」(監修者の中川いさみによる)で述べられているとおり、「作者が出ている作品」に絞って収録してあるからだ。吾妻マンガの単行本は現在までにいろいろ出ているけれど、僕の知る限り、かようなテーマで作品を選んでまとめた図書というのは、他に1冊も前例が無いはずで、一体誰が企画したのやら? なんとも興味深い条件でまとめたものだ……。
 そして、作者が主人公というのは、後日、自伝マンガの『失踪日記』につながってくる。考えてみればそうした叙述の様式は、ずっと以前から下地が整えられていたと言えるのかも知れない。



 蛇足を一席。
 吾妻ひでおの自画像キャラクター(古株の吾妻ファンはたぶん「アーさん」と呼んでいるはず)は、吾妻ひでおのデビュー直後から早くも作品中に姿を見せているみたいなのだが、その原型は、恩師である板井れんたろうによるキャラクターであるらしい(資料が今、手許に無いのだけれど)。
 よって、「アーさん」の初登場はいつだったか? といった検証を行なうならば、そちら、板井れんたろう作品までさかのぼって調べる必要があるかと思う。
 いっぽう、吾妻マンガに限定して調べるならば、『ザ・トンズラーズ』(1970年)ではもう副主人公になり、最初の連載作品だった『二日酔いダンディー』(1970~1971年)では既にレギュラー出演しているのが確認できる。ただしこの時はあくまでも作中人物として物語に登場しているようだ。作者たる吾妻ひでおの内面的な自画像に近いのはアーさんよりもむしろ主人公・ダンディーの方であり、印刷工場で働くのがあまりにもしんどいのに泣き出したりしている(最終回)。
 しかし、その連載直後に発表された読み切り作品『その名は海賊 大決戦』(1971年)だと、このアーさんが(たぶん、この時に初めて)主役で登場する。ここでもまだ、作中人物としての活躍ではあるものの、主人公としての「アーさん」が後日に作者の分身たる役割を恒常的に担うようになる足がかりは、この頃に構築されたのではあるまいか?
 ともあれ、純然たるフィクションであれセミ・ドキュメンタリーであれ、「アーさん」は吾妻マンガの大物キャラクターと言えるだろう。上記の初期2作品は残念ながら本書「あるいは吾妻ひでおでいっぱいの吾妻ひでお」には収録されていないのだが、彼のさまざまな活躍が読める。作者の代理にとどまらず、何の役に立つのか分からない発明ばかりする変な科学者になったり、ろくでもない神様になったり、あげくの果てには聖なる救世主(かどうかは定かでないけれど、とにかくどえらく普通ではない何か)にまでなっている。



 そういう彼だから、もう、「アーさん」というキャラクターについては、およそ説明のしようが無い。
 彼を知る最善は、この本を読むコトなんじゃなかろうか……。

戦う日曜日



(HANAKO 1989年1月26日号)

 日曜日。作者は、幼い我が子である姉弟と遊んでやろうと決意する。だが将棋でも、おはじきでも、子供に勝ってしまって、釣り合いが取れない。そこで……。

夏休み日記



(HANAKO 1990年9月20日号)

 夏休み。作者は息子と一緒にセミ取りへ出かける。(北海道の大自然の中で育ったせいか、)昆虫採集なんぞは朝飯前。絶好調……のはずだったけれど?

*吾妻ひでおは1989年11月に最初の失踪をしている。『戦う日曜日』と『夏休み日記』は、その前後の時期に発表された作品のようだ。



実録! あるこーる白書



(徳間書店 2013年3月31日初版)

 これはマンガ作品ではなく、対談を書き起こして記録したもの。
 正確には鼎(てい)談で、吾妻ひでお、西原理恵子、月乃光司ら3名が、司会者1名によって誘導されつつ会話を展開している。
 西原理恵子はマンガ家として有名だろう。かつての配偶者(故人)がアルコール依存症であった経験から、ここに招かれ参加したようだ。月乃光司は会社員また詩人であり、アルコール依存症に関する書籍に西原理恵子との共著がある(加えて、興味深い事にはマンガ家であった一時期がある(p.72)という)。
「これは、実体験者だからこそ伝えられる、エンタテインメント啓蒙書です。」と序文にある(p.9)とおり本書の意図と内容はきわめて真摯(しんし)なもの。あとがきで月乃光司は「本当に、どんな人でもこの病気になる可能性がある」、「ありふれた病気でありながら、これほど誤解と偏見が多い病気も珍しい」とまとめている(p.228)。
 吾妻ファンにとっては、入院していた病院の実名が記載されていたり、「うちの奥さんのこと俺もいまだによく分からない」と発言して「奥さんのことが分かってる旦那なんか一人もいませんよ」と西原理恵子にさとされ(?)たり、裏話のようなくだりがとりわけ興味深い(……などという読み方は不謹慎であろうか)。
 巻末には「吾妻・西原・月乃 比較年表」というのがあって(p.221)、これによると、吾妻ひでおの第1期失踪生活(1989年11月~1990年2月)のころには西原理恵子がマンガ家デビューし大学を卒業、月乃光司は「自殺未遂とアルコール依存症で、一度目の精神科病棟入院」をしたようだ。





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