Home / Site Map / Previous / Next

98 (無気力プロのこと)

(1)嘘みたいな始まり

(2006.7.17.付記:沖さんご本人と連絡がつき、このカテゴリの公開についてお許しを戴くことができました。またご教示賜ったいくつかの箇所を訂正。誤解や記憶の誤りがまだ他にもあるかと思われますが、とりあえず公開を継続。)
((2006.6.1.付記) 自分の思い出を語るにしても、そこに他人様が登場する場合、しかもその他人様のほうに重点が置かれているとなると、どこまでがネット上に公開しても良い話なのやら、なかなか判断が難しいようです。加えて、記憶を頼りに書くものというのは記述内容の正確さにどうしても限界が伴いがち。そうした点を悩んだ挙句、このカテゴリは一時公開中止していたのですが、できるだけ注意深く校閲しながら、少しづつ再開してみることにしました。)


 ……吾妻ひでお先生に直接お会いしてみたい、というのは念願でしたけれど、一介のファンに過ぎない自分にそんな機会があろうはずも無く、あきらめていました。それが、1975年だったかと思うのですが、ありえないような偶然で夢の実現をみることになったのです。
 当時まだ高校生だった僕は趣味でプラモデルを作っており、その専門店へ足しげく通っていました。或る日、そのひどく小さな店へ行ってみると、ほぼ同年代であろう先客が1人あって、店主がその人を紹介してくれたのでした(今どきだとこういう事はあまり無いかも知れないですけれど、当時はそんな形での他人との出会いがまだ世の中に存在したんですね)。で、紹介を聞いて僕はびっくりしました。その人はマンガ家のアシスタントをしているセミプロで、それも、なんと吾妻ひでお先生に師事しておられるというのです。そしてその時に知り合ったやや長髪の人物が、後にプロデビューなさる沖由佳雄さんだったのでした。
 この日、どんな会話をしたのか覚えていないのですが、多くのマンガ好きがそうであろうように、僕も自分でマンガのようなものを少し描いており、かなうなら将来マンガ家になりたいと夢見ていました。つまり沖さんと僕には3つの共通点があったのです。第一に吾妻ファン、第二に模型ファン、第三にマンガ家志望である……。だからでしょうか、何だか話がとんとん拍子に展開し、吾妻先生に会わせて頂けることになったのでした。

Ace
 (この、下手な作り話のごとき出来事の舞台となった模型屋は、残念ながら店をたたんでしまって今は存在しません。画像は、かつて店があった場所です。)



(2)驚きとためらいと

 さて、沖由佳雄さんのおかげで吾妻ひでお先生にお目通りを許され、その日取りまで決まったものの、僕の胸中は複雑でした。僕は間違いなく吾妻ファンであり、本当にすごくうれしかったのではありますけれど、不幸が1つあったのです。それは、僕がファンとしてのピークを通り過ぎて、その時にはやや下り坂に立っていたという時間差の問題でした。つまりは「ちょっと遅かった」んですね。
 これにはおそらく説明が必要でしょう。吾妻ひでお先生がメジャー路線への階段を昇り始められたのは『ふたりと5人』(1972年10月~1976年9月)がヒットしてからかと思われますけれども、吾妻ファンというものはそれ以前から世に存在していたのです。そして、そうした古株の吾妻ファンのひとりとして僕のような者から(読者としての身勝手な観点で)みると、『ふたりと5人』には失望を感じさせられる要素が含まれていました。実際、僕は、沖由佳雄さんと出会うよりも前、吾妻先生に宛ててファンレターを1通出していたのですが、その内容はおそらく先生にとって励みとなるより憂鬱をもたらすものだったことでしょう。『ざ・色っぷる』(1970年10月~)以来ずっと先生のファンです、しかし『ふたりと5人』は少しマンネリになってきている気がします、といった調子で言いたい放題のひどいものだったはずですが、なんと驚くべき事に、吾妻先生はそんな僕の手紙にお返事の葉書を下さいました。驚いて何度も何度も読み返したから、その文面は今でもかなり鮮明に覚えているのですが、書き出しは次のようなものだったと思います……。
「僕の最近の作品に対する君の批評は大体当たっていますが、本当の事とはいえ批判されるのは気分が悪いので、今度は何かほめて書いて下さい。ウソでもいいから本当の事を書いて下さい。そーすれば君にも神の祝福があるでしょう。(後略)」
Iropple10e



(3)情けない「ファン」

 ……今になって考えると、文面こそユーモアと思いやりで砂糖菓子のようにコーティングされてはいるものの、拝受したこのお返事には吾妻先生の苛立ちがにじみ出ていたような気がします。無理もありません、『失踪日記』(2005年3月)p.130によれば『ふたりと5人』は、先生にとってイヤイヤながらの連載だった部分があるようですし、それを、誰よりも先生の味方であるべきはずの「ファン」である読者からさえケチをつけられるとあっては、先生の無念さがいかばかりであったろうかと察せられ、今思うと全く申し訳ない気持ちで一杯になります。実を言えば僕は、『ふたりと5人』が編集部からの注文が先にあって執筆されている作品なのだという事は、後日に沖由佳雄さんから直接うかがっており、連載されている当時すでに知ってはいました。それでもなお、あれではファンに対する裏切りだと沖さんに向かってこぼしていたのでした。僕も十代なかばでまだ分別も何も無い生意気盛りだったのですが、それにしても本当にひどい「ファン」もあったものです。しかし愚かな高校生にすぎなかった当時の僕のような読者に、プロのマンガ家の仕事というのがどのようなものかを納得理解させるのはおそらく不可能だったでしょう。
futari
 で、ついに吾妻先生にお会いできることになり、こんな機会はもう二度と無いだろうからサインをいただかねばとがめつくも願い、僕は少し考えました。そして、自分で製本した『きまぐれ悟空』(1972年2月~7月連載、これは週刊少年チャンピオンを分解してそこだけ保存したものでしたが、小遣いで毎週買うことはできなかったために後半のみなうえ、途中が何度か抜けていました)を持って行き、それにサインをいただこうと決めたのでした。当時はまだ、吾妻先生の作品で単行本が出ていたのは『ふたりと5人』(1974年5月~)だけだったので、吾妻ファンたちはおそらくみんな同じ事をしていたろうと思われます。そして……僕はこの時、『ふたりと5人』の単行本をまだ手に取ったことさえありませんでした(つくづくナマケモノであったのか、それとも作品への失望が大きかったのか理由はよく分からないのですが)。それゆえ、「著者近影」の写真を見たことも無く、先生がどのような風貌のかたなのか知らなかったのでした。
 確か午前中、沖さんに連れられて例の「カトレア」という喫茶店へ出かけ、そこで待つ形になりました。やがて沖さんが先生のいらしたことを教えてくれたので、僕は顔を上げて通路の方を見たのです。
(えっ?)
 僕はあっけにとられました。あの自画像にそっくりの、ふっくらした体型の人などどこにもいません。こちらへ向かって歩いてくる一人の男性がありましたが、その姿は……。



(4)全然違う!?

 ……とにかく、マンガによく出演している自画像が頭に入っているものですからどうしても吾妻先生とは思えない。どちらかと言えば”哲学的先輩”にむしろそっくりでした。学帽と学生服を脱いで背広(というか、ジャケット)に着替え、作品中では最後まで一度も外さなかった黒メガネをついに外した「本物」が現実に現れた、というふうに見えたのです。唯一違和感があったのはその眼光がとても鋭いことでした。
Senpai03
 先生は僕らと同じテーブルで真向かいの席に座られるや、手帳を取り出し、黙々と予定の記入を始められ、僕はあぜんとしてそれを見つめるばかりです(あの時、ちゃんとご挨拶できていたかどうかさえ自信がありません)。僕は何を言えばいいか分からなくなってしまいました。沈黙がずいぶん長く続いたようで、ついに沖さんが苦笑しつつ小声で僕に「何かおたずねしたい事とか無いの?」と助け舟を出してくれますが、厳しい表情で書き物をしておられる先生を前にしたら、なんだか話しかけてはいけないような感じがしてどうしようもありません。やがて先生は大きな事務封筒を取り、そこから『ふたりと5人』のゲラ刷り(と、呼ばれるものだったと思うのですが、扉のタイトルやアオリ、台詞などの写植を貼り終えて試し刷りしたもの)を出して僕らに見せて下さいました(どうも『恐怖の当番!!』(週刊少年チャンピオン 1976年1月1日号)がそれだったらしい)。
 それを読んで笑ってしまい、僕は緊張がいくらかほぐれたようです。先生の書き物もひと段落ついたかに見えたので、『きまぐれ悟空』の自家製本版を出し「サインをいただけませんでしょうか」とお願いしました。先生は表紙(白色の画用紙でした)をめくったところへ悟空を描き(それが、ページをめくってちらちら見ながらだったので沖さんが「見ないと今では描きにくいですか」とか苦笑しておられたのを覚えています)、その横へサインを下さいました。
 そしてその日を最初に、以後、吾妻先生と何度かお会いする僥倖(ぎょうこう)に恵まれることとなったのです。



(5)沖さんの素顔

Apart
 かくて沖由佳雄さんは僕にとって恩人となり(それにしては、何かそれに報いるお礼ができたかどうか記憶が無いのですが)、またマンガにおいての先輩となって、おつきあいさせて頂くようになりました。同じ模型屋へ通っていたくらいですから、その下宿先は僕の自宅からさほど遠くなく、歩いて行ける距離にあったのです(この建物も現在は取り壊されてしまい存在しませんが、とりあえずその近所の画像を貼っておきます)。
 沖さんの部屋へ僕は時々お邪魔するようになり、執筆中の作品を見せて頂けることも何度かありました。その中にはヒロインの名前が「誉(ほまれ)ちゃん」というものもあったのですけれど、その名づけた出所がふるっていて、旧日本軍の軍用機のエンジンの名前がもとになっているとの事でした。沖さんは大変な博識で僕はしょっちゅう驚かされたのですが、模型のマニアとしてもとんでもない腕前で、部屋のテレビの上だったかには全長50cmくらいの駆逐艦「秋月」(2006年7月17日付記:以下、既述を少し訂正しました)が飾ってあったのですが、縮尺1:200のその煙突には極細の針金で自作した「はしご」が植えてあったりして、えらく手の込んだ作品になっていたのです。僕はうちのめされる一方でした……。



(6)ご高評を仰ぐ

 沖由佳雄さんはそれ以前、アマチュアサークルに所属しておられたようで、その時の同人誌を見せて下さったのですが、これは1976年当時には珍しく印刷・製本された高度なもので、僕が初めて見た「同人誌」でした。その頃はまだコピーさえあまり普及しておらず、アマチュアのサークル会誌といえば「肉筆回覧誌」と呼ばれる、生原稿をまとめた1冊きりのものが普通だったのです。何もかも僕よりはるか先を行っておられるような沖さんを見て僕はがくぜんとしたのですが、たったひとつほっとした(?)のは、そんな沖さんでさえまだ作品を次々と描き上げるのは苦しいご様子だった事でした。いつだったか吾妻先生に「カトレア」でお会いした際、沖さんは新作を先生に見て頂いていたのですがそれは1コマ漫画が数枚というもので、「話」という形式ではなかったようです。吾妻先生はにこりともせずじっくりそれらの作品を見、顔をあげるとただ一言、
「まあまあだな」
とおっしゃられたのです。それははたから見ていると、とても作中に出てくるあの自画像の先生とは思えません。プロから容赦なく「判決」が言い渡される場面でした。
 マンガのようなものを僕もこっそり描いてはいたので沖さんにはそれについて伝えたりしていたのですが、沖さんから、
「じゃ、先生に見てもらう? ただ、うちの先生はきびしいよ~。イラストばっかりの同人誌だと”これはファッション雑誌じゃないのか”なんて言われちゃうからね」
などとニコニコしながら警告されるものだから、もうおっかなくてとても吾妻先生に見て頂こうなどという勇気は(とうとう最後の最後までついに)起きませんでした。
 しかしそういう沖さんも吾妻先生ゆずりなのか、僕がちょっと描いてみたイラストとか見せると手厳しいのです。僕が初めて作ってみたサークル会誌(これは学校でよく使われる「ガリ版」と呼ばれる方式のものでした)を1冊謹呈したらその批評を下さったのですけれど、それはもう、てんでボロクソ、なんにも褒(ほ)めてもらえません。しかし僕も僕で、若者特有の事なのか、ヘンな自信は持っていてしぶとかったから、ケンカ別れとかにはならず、お付き合いが続いていたのです。



(7)沖さんの最初と、当時

 沖由佳雄さんは『二日酔いダンディー』が最初に出会った吾妻作品だそうです(2006年7月17日付記:以下、少し既述を訂正しました)。吾妻先生へお手紙を出したことがあり、その時ものすごく親切なお返事を頂けたのが理由で、吾妻先生に弟子入りをお願いする決意をした、ということだったようです。
 沖さんとは、模型よりマンガの話をしている時間のほうがたぶん多かったでしょう。しかし同じ吾妻ファンとはいえ、沖さんと僕では美感覚となるとやはり微妙に違うんですね。1977年頃、沖さんからSFもののアイディアをもらって僕が物語にし、マンガにまで仕上げるというのを試みた事があって、そのキャラクターデザインのラフを沖さんに見せたのです。すると、「(ヒロインの)胸が大き過ぎるんじゃないかな」と沖さんの修正が加えられ、「流線型のほうが(女体も)キレイだと思う」という御意見でした。模型では沖さんが航空機と艦船、僕は戦車とかがほぼ専門だったのですけれど、好みという点で何か通じる部分があるような気がして「ふむ?」と思ったのを覚えています。
 結局この合作は僕の実力不足ゆえ完遂できませんでした。今思い返すとすごく残念です。



(8)新聞を発行する

 沖由佳雄さんは同人誌についてかなり詳しかったようで、誰なのかその知人には1000冊も買い集めたあげく「同人誌に良いものは無い」と結論した人さえあったようです。そうした沖さんなればこその案だったと言うべきでしょうか、1977年(?)にはファンサービスとして「ALICE」という、コピーによる新聞を発行し、僕にも1部下さいました。見ると”28号”になっています。
「もうずいぶん出てたんですね」と驚いたら、
「いや、これが創刊号なんだ」と苦笑しつつのお言葉。なんでも1号じゃ恥ずかしいからとサバ読んだらしいのです……。それにしても何故28号なのかいまだに分かりません(ちなみに当時、吾妻先生は27歳だったはず)。やはり、かの「鉄人」から来ていたのでしょうか。
 創刊号の内容はたしか、吾妻先生へのインタビューでした。
Q 好きな女性のタイプは?
A ひ、寛子~!
Q 結婚はしてますか?
A あうあう
といった調子なのですが、
Q マンガ家以外になりたかった職業
A ヒモ
なんて記述もあり、どこまで本当なのやら。編集後記を読めば「編集部では編集をしています。お便り、水着の写真、例の写真などを募集」とかとあり、真面目と冗談が混在した新聞でした。これは、それまでに吾妻先生へファンレターを出していた読者に宛てて、無気力プロが自腹で郵送していたものだったのですが、紙面は完成度の高いものであったと記憶します。創刊号が「全面よいしょ」(と、たしか書いてあった)なので正々堂々といくぞという決意なのか次号予告には「吾妻ひでおメタクソけなし特集!」とあったのですが、これは「某スジからクレームがついたので」中止になったようでした。そのかわりに「何が不滅なのか知りませんが不滅のキャラクター特集」という記事があって、数名のキャラクターが生まれたいきさつなどについて書かれていました。これは大変興味深い裏話で、僕はもっと読みたかったのですが取り上げられていないキャラクターもあるままついに続編の発表はなく新聞が休刊してしまったようで、残念に思ったのを覚えています。



(付記:『不思議の国のアリス』)

Alice
 ルイス・キャロル(Lewis Carroll)によるこの古典"Alice in Wonderland"について、吾妻ひでお先生ご自身が何かを語った記録というのは、寡聞にして存じません。『吾妻ひでお大全集』のインタビューで「アリスは、昔読んですごく好きになった」という発言が読めますけど(p.223)、むしろ(1962年のフランス映画『シベールの日曜日』に登場する少女の)シベールが「いちばん理想に近い」とあります。逆に「今の人はアリス趣味の人が多い」、「ワシラよりもタチが悪い!」、「一生結婚出来ない!」と語っており、『妄想のおと ロリコン篇』になると「最近はアリス趣味の人が多く主流をしめていてしかもカゲキである」というナレーションが読めるんですね。
 このへんから考えるに(吾妻マンガで『不思議の国のアリス』がしばしばパロディの題材に使われている例はあるけれど)、「アリス」は吾妻マンガにおける“女性美の基準(?)”として絶対的な位置にはいないのでは、という気がします。未確認ですがもしかすると、無気力プロ新聞の題名が『ALICE(アリス)』だったのは、沖由佳雄さんのアイディアだったのかも知れません。沖さんは当時、「アリス」については英語の原著や洋書さえも調べて幾つか所有しておられたと記憶しますし、蛇足ながら僕が初めて『不思議の国のアリス』を読んだのも確か沖さんにすすめられたのがきっかけでした。
 その時に日本語訳で最新のものはどうも角川文庫版だったようで(画像がそのカバー、初版は昭和50年8月30日)、僕はこれを読了したあと沖さんと「アリス」について少し話した記憶があります。その内容はよく覚えていないのですけれど、
「角川じゃ『亀もどき』って訳になってるの!?」
と驚き笑っておられた氏の笑顔と声だけは今も鮮明に思い出せます。
 (なお、角川版の訳者は福島正実(ふくしままさみ)なのですけれど、この人こそが『SFマガジン』初代編集長であったことを僕が知るのは、もっと後になってからでした。)
 『不思議の国のアリス』は、「少女」(という画題)よりもむしろ、「不条理」という側面で吾妻マンガに影響を与えているのでは? という気が、僕は、ちょっとするんです。キャロルの原作を読まれたかたはご存知でしょうけれど、物語としての構成やら演出やら寓意やら何やらを評価判断すべく考えるとこの作品って、殆ど支離滅裂で奇怪で、「なぜこれが古典名作なんだ?」と悩まされる場合もあるのではと思うんですね。作家や学者や読書人はいざ知らず、普通一般の読者のあいだでは評価がけっこう分かれるんじゃなかろうかと。英語の原文で読めばあちこちにびっしり埋め込まれている言葉遊びとかが読み取れるのかも知れませんけど、翻訳版を読む場合、どうしてもそういった要素は減衰してしまうでしょうし。
 それでも、ご存知の通り『不思議の国のアリス』は英国のみならず世界中でちゃんと評価され現代でもなお読み継がれています。「読者を選ぶ作品」という点で、ひとつの典型なのではないでしょうか。
 考えるに、こういった「ナンセンス」を受け入れられるタイプの読者には吾妻マンガの不条理ギャグも通用し、逆の場合には「???」という読後感だけが残ってしまうのかも知れません。しかし、僕は本気で思うんです、あと百年ほどが過ぎ、僕たちがみな誰もいなくなってしまった後でもなお、吾妻マンガの不条理ギャグ作品はちゃあんと読み継がれているんじゃないだろうか? と。
 だって、『不思議の国のアリス』がそうなんだもの。



(9)複雑な気持ち

 で……。その新聞の2号目(1977年5月)は"29号"とはならず"むちむち号"と書いてありました。これが郵送されてきた時、もったいなくも吾妻先生直筆のお手紙が同封されていたのですけれど、「だんだんエロトピア風になってきた」とかお言葉があり、はて何の事だろうと沖由佳雄さんに後日おたずねしたら、どうも当時存在したいわゆる三流エロ劇画雑誌のそれ(数字ではなくそういう珍妙な名称を毎回付けてあったらしい)にならったみたいでした。このアイディアが吾妻先生によるものなのか沖さんによるものなのか今も分かりませんが、次回に女性ファンからの投書が引用されており「だっ、誰ですか、こんな号つけるの!?」という反応が起きていたようです(無理もないと思う……)。ちなみにその次はたしか「ケデント17号」とかと書いてあって(これは朝のTV児童番組で大場久美子おねえさんが子供達にゲームをさせるコーナーについていた題名を流用したらしい)、「スペキュレイティヴ アズマ マガジン」とか副題がついていたと記憶しますけれど、もうむちゃくちゃ。創刊号のロゴが凝った字体で僕は読めず、沖さんに質問し、「AZUMAかなあとか思った」とお伝えしたら、哀れに思ってか2号からは「アリス」とルビをふってあったと記憶します。
 2号目のキャラクター特集でとりあげられていたのは確か以下のような顔ぶれでした(カッコ内は先生によるコメントを記憶で再生したもの)。
二日酔いダンディー(映画『真夜中のカーボーイ』を観て感動し生まれた、黒目が無いので表情がむつかしい)
三蔵(たいていの三蔵さまはかっこいいので、さからってくずしてみた、こーゆーいやらしい中年に私はなりたい)
エイト・ビート(最初は色っぽい男の子をかこうとしたのだが、だんだん普通のアホの子になってしまった)
*ネコイヌ(ネコのつもりでかいたのだが担当さんが「このイヌは……」と言ったのでネコイヌとなる)
*アーさん(一番よく使ってる自画像、たえず自分を出したがる自己顕示欲こそ創作の原動力である)
おさむ(スケベな人! 作者がモデルという説があるが、デマである)
*ユキ子さん(『ふたりと5人』をかいたおかげで女の子のファンがへってしまった、「世の中ゼニじゃ」とわめきつつ、ドロ沼に落ちてゆく今日このごろです)(回想注:おさむに追われ画面の外へ逃げてゆく構図で、脚しか描かれてなかった)
 今思えば『ふたりと5人』で苦しんでおられた当時の先生の内面が、ここにもちゃんと訴えられていたのが分かります。しかし僕は愚かにもそれに気づかぬばかりか、自分が最も好きだったキャラクターがこの時扱われなかった事に失望していたのでした。



(10)マンガに恋する

 吾妻ひでお先生の作品で僕が最も熱中したのは『エイト・ビート』と『きまぐれ悟空』でした。連載当時、僕は中学生だったのですが、マンガを読んでいてすんなり物語の中へ入っていける最後の年齢だったんでしょうか、その没頭ぶりはかなり深いものでした。作品を読みたいというより、自分がマンガになってしまってその世界の中へ行きたいと願うような調子でしたから……。
 絵を模写する(これはファンならきっと誰もが行うでしょう)のに始まり、「悟空」に登場する"観音さま"にいたっては人形まで作ってみました。まだフィギュアという言葉さえ知られていないような時代でしたから材料も無く、幼稚園児みたいに油粘土を使い、上半身のみを全高10cmほどに再現しただけの稚拙なものです。前髪が独特なので立体にすると似てくれず、目は閉じた状態にしたりと苦労しました。とにかく、それほど好きだったんですね。
 後日、吾妻先生にカトレアでお会いした時、「僕は観音さまにとりつかれて現実の女性に興味が持てなくなってしまいました、責任をとって下さい」と冗談半分に訴えた事があります。先生は苦笑され「探せば、ああいうの、いるんじゃないの?」と語られ、横にいた沖由佳雄さんが「観音さまは人気ありますねえ」と先生に言っておられたようです(僕と同じような読者が何人かは存在したのでしょう)。吾妻先生は、ご自身がマンガをかくようになったのは石森章太郎先生の入門書を読んだからで、石森先生がいけなかったのだ等とおっしゃられて、このへんから雑談は転がりだしました。石森先生は手塚治虫の影響、手塚先生はディズニーの影響、ディズニーは部屋にいたネズミを見てミッキーマウスを生んだらしい。そうかネズミがいけないのだ、いやネズミより壁が強い、壁より風が強い、風より太陽が強い、いやいや実は太陽よりネズミが強い……。とうとう吾妻先生があきれはてておっしゃいました「ちゃんとオチがついてる(な)」。
 『きまぐれ悟空』の単行本化は連載終了から5年後にやっと実現し僕は大喜びしました。どうしても全部を読みたくて、「チャンピオン」のバックナンバーをCOPYさせてもらえないか、編集部(の壁村編集長あて)に往復葉書で問い合わせたことさえあったからです(編集部は親切にも返事をくれたのですが、当時はCOPYが1枚で50円ほどしたので結局断念したのでした)。単行本を買うやその表紙を見て、僕はやはり先生に手紙でグチを書きました、「前髪が違う、阿素湖素子に似てきている」等々。すると先生はお返事を下さいました、「あの頃の絵、今は描けないんです、表紙、なんとか似せようとしたんですが……」その横にアーさんのカットが描かれており、「な、なんで自分の絵、マネせにゃならんの?」という台詞が読めました。それはユーモラスな絵でしたけれど、吾妻先生にしてみれば苦しんでおられたのかも知れません。「ALICE」のキャラクター特集に観音さまは描かれていませんでしたし、『エイト・ビート』のメチル・アルコール警部とかは後日に雑誌で肖像が描かれたりしたようですけれど、観音さまは単行本の表紙以外ではもはや描かれることが無かったように思うからです。



(11)年上の女

 今にして考えると吾妻先生にとって、御自分の作品が美女や美少女という角度からばかり注目されるというのは、あまりありがたくない事だったのかも、という気がします。それは重要な要素であり個性ではあるとしても、作品の全体ではなく部分ばかりを拡大して注目される事ではなかったかと思えるからです。僕は『きまぐれ悟空』(1972)で主人公たちが新々長官のムセッソーと対決する回を特に強く覚えていますが、これはその回に発表された主題歌をさんざん苦労してハーモニカで吹いて録音し、歌ってみた(だから今でも歌えます)という事の他に、全編を通じて1度きり、たった1コマだけ、観音さまの肌着(ブラ)をおがめる話だったのに、どうしてだかこの回だけ線に抑揚が無く絵が妙なのですごく残念だったというのがその理由でした(恥ずかしくてこれは吾妻先生にも伝えなかったと思いますが)。こんな「ファン」は先生にとってやはり厄介だったでしょう。
 (全くのわたくしごとですけれど)高校が共学だった僕はクラスの女の子とかかわりあいが始まって、現実の異性で忙しくなりました。マンガでは相変わらず"年上の女"キャラクターが最も好きで『セクシー亜衣』(1974)は連載当時に読んでいたのですが、最終回になる前に雑誌の講読をやめてしまったようです。吾妻先生の作風が『ふたりと5人』以降に変化してきたことも加わり、僕は吾妻マンガへの惑溺から少しずつ「卒業」を始めたのでした。そしてその後に沖由佳雄さんと偶然知り合ったのです。この時間差は僕にとってはすごく残念でしたけれど、吾妻先生にしてみれば、ぶっ壊れたような変なファンに付きまとわれずにすんだわけで、良かったのかも知れません。
 とはいえ吾妻マンガから僕が受けた影響は強烈で、普通の"読むだけ"の読者の域から道を踏み外し、とうとう自分でもマンガみたいなものを本気で描き始めるようになってしまいました。それで、沖さんとは"自分のマンガ"について時々話し合うようになったのですが、それゆえでしょう、1977年の秋、とんでもない話が舞い込んで来ました。吾妻先生の「無気力プロ」で、1日だけ、臨時のアシスタント(のアシスタント)をしてみないか、と沖さんが言うのです。まるで信じられない、それこそマンガみたいな展開になってきました。製作過程では最も簡単な部類に入る、消しゴムかけ・ベタ・ホワイト修正だけですけれど、それでも気が遠くなるように感じました。自分で本当に大丈夫なんだろうか? しかしあまりにも嬉しかった気持ちに勝てず、是非やらせて下さいと飛びついてしまったのでした。



(12)ついに先生の執筆現場へ

 しかしこの辺で、細部の記憶が曖昧になります。僕が初めて無気力プロでアシスタントのアシスタント(?)をやらせて頂いたのは忘れもしない『ネムタくん』で『女教師はイヤ~!』の回(月刊少年マガジン1977年11月号)なのですが、それ以前にも何度か吾妻先生にお会いしていたらしく、断片的な記憶があるのです。もしかすると沖由佳雄さんに会うために直接、吾妻先生のお仕事場である「無気力プロ」へ出向いていたのかも知れません。
 その少し前、無気力プロ発行の新聞であるALICEに「吾妻ひでお伝!」というマンガが掲載されたのですけれど、その執筆をせがんでしまったのが自分でした(最初のコマに「僕の修行時代のことを知りたいというお便りが多数(1通)あったので描くことにしました」というナレーションがあった)。で、このマンガは冒頭3つほど真っ白なコマが続き、それからアーさんが現れ「ううう、原稿料の入らん仕事はもひとつ乗らない」という台詞があったのです。僕は、自分がひどく厚かましい発言をしてしまったのではと悔いて、吾妻先生にお会いしたさい、「申し訳なく思っています」等とお詫びしたのですが、はてちゃんと伝わったかどうか不安でした。というのはその次のALICEで「吾妻ひでお伝! が落ちました。吾妻先生が落とせるのはアリスくらいだ」とあって、連載中止になったからです。何か失礼な発言に聞こえてしまったのではと心配したのですが意外にもお手伝いのお呼びを頂けたのでどぎまぎした覚えがあります。
 で、その当日は午後にカトレアへ行き、吾妻先生にお会いしました。原稿に直接下絵を入れておられる真っ最中で、「これはすごいチャンスだ!」と驚いた僕はこっそりそれを覗き込んでみました。コマには鉛筆で「キス」とか文字だけ書いてあって、それだと何を意味するのか分からないのですけれど、後で全部に絵が入ってやっと分かりました。最初、僕は先生の真向かいに座って盗み見ていたのですが、先生の気を散らしてしまっていたようで、「こっちで待っててもらおうかな……」と先生に言われ、別のテーブルに移動して待ちました。一段落したのか先生は立ち上がり、僕はその後について仕事場へと向かったのです。
 この仕事場へは何回かお邪魔させて頂いたのでしたが、今となっては場所が全く思い出せません。喫茶店のカトレアが確か駅前で、そこから歩いて行けるほどの距離だったはずなのですが。裏手だか近所に小さな神社があったような気がします(付記:ほぼ当時の地図が見つかり、場所を特定できました)。さて、その仕事場というのがどんなところだったかと言うと、これが……。



(13)無気力プロ

 まず、そこは木造建築でありました。1977年と言えばまだ昭和52年、そのことはさして珍しくもなかったでしょう。平屋建て(1階のみ)という、もったいないような土地の使い方をしているのもそれほどどうってことなかったかも(2006年8月訂正:これは僕の記憶の誤りで、1979年当時の地図で調べたところ、2階建てであったようです)。しかし、トイレが確か"汲み取り式"だったのですが、これはどうなんだろ……? 当時の東京では既に珍しくなりつつあったような気がする。と、まあけっこう年代物の家屋でしたから、現存しないでしょうな、たぶん。
 ちなみに、なぜトイレの事を覚えているかというと、『オリンポスのポロン』で、スピンクスにかけた謎の答えに「トイレのふた」という解説があり、この仕事場のトイレにも「ふた」が付いていたので、もしやこれを念頭に書かれたのだろうかなどと思ってしまったからなのでした。
 さて、そこは玄関と台所を別にすれば1部屋だけという物件で(だからここは仕事場のみで住居としては使われておらず、奥様がお住まいの先生のご自宅は別の場所にあったようです)、8畳くらいだったでしょうか、記憶をもとに大雑把な平面図を描くと下に示す画像のような所でした。「失踪日記」p.141などで描かれているようですけれど、確かにあんな感じだったと思います。
 ここへ来て初めて、僕は重要な人物と出会いました。それまで長きにわたって吾妻先生のアシスタントをつとめてこられた「みぞろぎ・こう」さんです。無気力プロ発行の新聞「ALICE」の記事によれば釣りのマニアで、ラーメン、ヤクザ映画、ケンさん(注:高倉健と思われる)、あべ静江が好きというかたでした(みぞろぎさんは、ど素人で下手なうえに作業の遅い僕をこっそり助けて下さったのですが、そのご親切にちゃんとお礼を言うことが出来ていたかどうか自信が無く、今も僕は後悔しています)。仕事場はとてもきれいに片付いていましたけれど、それは、みぞろぎさんが几帳面なかただったのが理由らしいと後で分かりました。しかしその「みぞろぎさんでさえ手を付けなかった」と沖さんが苦笑したのが、吾妻先生の机の上でした。
 いろいろな作品に描かれていますけれど全部ウソです。
 あんなにキレイじゃありませんでした。筆記用具が机上にあるのはともかく、使い古して外したペン先、消しゴムのカス、オモチャの小さなロボット(?)、その他ありとあらゆる得体の知れないものがゴミの山みたいになっており、それを押しのけて確保したスペース(引き出しが片方しかない机だからその面積は限られたものです)で原稿にペン入れをなさるのでした。しかもその時、吾妻先生は左足を机の外の、とんでもない方向へ出して踏みしめておられ(これは机の上のゴミ?が凄くて、だんだん左へ追いやられてしまったのではないかと思うんですが)、その後姿はさながら何か力仕事をしておられるように見え、僕は驚いて開いた口がふさがらなかったのでした。
heimen



(14)無気力プロの時間割

 『オリンポスのポロン』(ハヤカワコミック文庫)の第1巻で『あとがき』(2005年2月初版の為の描き下ろしらしい)を読むと、当時の状況が語られています。
「徹夜の日々が続いていました ポロンも20P一晩で仕上げる なんてことは当り前」
 こういった窮境ゆえ、もう本当に猫の手でも良いから借りたいということだったのでしょう、僕のような実力もなんにも無いアマチュアがその”猫の手”になり、無気力プロへ出入りを許されて、吾妻先生の周辺をうろつくようになったのでした。先生たちにしてみればひどい災難でありましたが、僕にしてみればものすごい偶然によって転がり込んできた幸運であったのです。なにかしらお手伝いさせて頂いた記憶のある作品には以下のようなものがあります。
・ネムタくん 『女教師はイヤ~!』(なめんなよ女教師の巻)1977年11月号
・やどりぎくん 『ぐーたら哲学』1978年9月号
・オリンポスのポロン 『パンドラのつぼ』1978年9月号
『ふらふら少年漂流記』 少年チャンピオン1978年9月4日号
・やけくそ天使 『かくてーしんこく お早めに』1979年3月8日号
 当時は学生でしたので、緊急に呼び出されて出かけるのも週末であれば可能だったのです(当時の無気力プロでは夜間にペン入れと仕上げが行われ、早朝に完成という時間割になっていました)。大失敗をしでかして原稿をおかしくしてしまった事も数回あり、思い出すと冷や汗が出るようです。しかし本当に楽しく幸せな日々ではありました。
 仕事場にはテレビがあって、0時頃まではつけっぱなし(映画「シベールの日曜日」を観た記憶があります)。テレビ放送が終わるとラジオの深夜放送をつけっぱなし(吾妻先生は鶴光の番組がお好きだったようです)。夜食を食べて(『ひでお童話集』の『兄妹』にも出てきますがメニューは”もやしラーメン”とかで、すごく美味しかった。吾妻夫人みずから作ってくださったおにぎりを皆でご馳走になった記憶もあります、この時たしか奥様は腹痛に苦しんでおられたらしいのに)、また朝まで仕事。テレビが始まると、なぜか「おはよう! こどもショー」などの児童番組をつけっぱなしにして最終仕上げになります。で、めでたく完成すると全員が仕事場を後にして、喫茶店の「カトレア」へ行き、モーニングセット(コーヒーにトースト、ゆで卵が付いてくる)を注文して休憩。しかし吾妻先生はその後すぐ次の作品の準備にとりかかっておられたわけで、本当にフル稼働の日々だったようです。愚かな学生だった僕が傍目に見てもその大変さは察することができる程でしたが、同時に、プロのマンガ家の生活を目の当たりにして「いつかは自分もプロになりたい」と、おめでたくも身の程知らずに憧れていたのでした。



(15)シンデレラの鐘が鳴る(?)

 吾妻先生の多忙さはすさまじいものだったようで、殆ど明け方になって仕事が一段落すると、それから現場で仮眠をとられる事もあったようです。しかしもちろん、仕事場には寝具などありません。
「*時になったら起こして」
とおっしゃっられ、部屋のほぼ中央で畳の上へ横になり、座布団を折り曲げただけの枕で眠られるのを見た事があります(『ひでおのハイパーダイアリー』でちょっと書いてある”ザブトン”はこれと同じものかも知れません)。僕らだけで作業を続けるうちにやがて時間がきたので、僕は吾妻先生をそっと起こしたのですが、先生は御自分の腕時計をちらりと見るや、
「ウソだあ」
と悲痛な小声で言ってまた寝直してしまわれ、沖さんが苦笑しつつ、
「ウソなんて言いませんよぉ」
と証言して下さったのでした。先生はこの時よほど眠かったのでしょうね。
 そうした過酷な生活を見たせいでもないでしょうが、僕は複雑な気持ちになっていました。当時の僕にとって吾妻先生の仕事場こそは、吾妻マンガの世界に通じている、この現実で唯一の接点、大げさに言えば異次元空間への扉みたいな地点でしたから、この世で最も行ってみたい場所でした。今やあれほど願ったその夢は実現して、実際に幸福だったのではありますが、何だか(それまでの読者の立場で)陶酔していた魔法がとけてゆくような寂しさも同時に感じていたのです。それは自分が没頭してきた世界の全てがここで制作された幻に過ぎなかったと見せつけられる様な辛さでした。舞台裏を覗き込んでさらにそこでの仕事に参加すると、その瞬間を境に、読者としての夢の時間は失われてゆくのかも知れません。
 加えて「ふたりと5人」以後、先生の作風は変化してもはや二度と再び戻る兆しもありませんでした。その点に失意を感じていたのは僕だけではなかったようで、新聞「ALICE」へ届いた読者からの手紙に、”かつてはAZUMA WORLDとでもいうべき独特の世界が舞台になっていたのに、今では現実(大泉学園)での物語になってしまっている”という趣旨の指摘があったように記憶します。僕はそれを読んで、全くその通りだと感じたのでした。「ALICE」の読者はおそらくほぼ最も古参にあたる吾妻ファンの人たちだったのだろうと思うのですが、編集その他を遂行していた沖さんのお話では「すごく熱烈なファンだった人が別人のように冷めてしまったりしている」という実情が明らかになっていたようです。「ALICE」には吾妻先生自ら記入されたのか次のような文がありました。「落ち目でしょうか」「盛者必衰は世の習いとはいえ、盛者にならないうちに必衰とは、これいかに」……吾妻流の自虐的なユーモアはここでも芽をふいていた事が分かります。しかし危機をはらんだこの時期に、実は次の新しい時代がすぐそこまで来ていたのでした。



(16)上り坂

Out_8Top
 それがいつどのような形で始まっていたのか時期を絞り込むのは難しいのですけれど、明確なのは1978年、月刊OUTの8月号が「吾妻ひでおのメロウな世界」という題で特集記事を組んだ頃、あらたな吾妻ファンの層が開拓された(と思われる)事でしょう。それ以前にももちろんファンレターは届いており、なかには毎日のように同じ人から葉書が来るので吾妻先生が苦笑しておられたケースさえあったようです。その時点で感じられた状況の特徴は、古参の吾妻ファンたちの熱意に再び火がついた、というのではなく、「ふたりと5人」以後に吾妻マンガを読んでファンになったらしい人たちが現れ始めたというものでした。

Sffantasia6
 加えて、翌1979年に学研から『SFファンタジア 第6巻 マンガ編』が発売され、「昭和四〇年代の中ごろ、永井豪と並んで、作品中にSFマインドを最も色濃く漂わせていた漫画家」、「唐突に「とーとつですが、アルジャーノンにはなたばをあげてやってください」と書いて、違和感をまったく覚えさせないのは、漫画家多しといえども、多分彼ひとりだけであろう」等、吾妻先生が評価、紹介されました(p.62~『'70年代から'80年代に至るSF漫画』、執筆者は高千穂遥先生)。

Pro
 また前述のOUT誌では、吾妻先生のアシスタントであった、みぞろぎさんと沖さんの似顔絵が先生の手によって描かれています。当時、沖さんにこの記事と似顔絵を見たと告げたら開口一番苦笑しつつ「あれヒドイよねえ!? 先生は”リアルに描いた”とか言うんだけどさあ」と嘆くことしきり(頭に穴が開いている絵だったので、脳外科の手術を受けたのかと誤解されて人から質問されたそうです)。とはいえこうした似顔絵が原型となったキャラクターを通じて沖さんは吾妻マンガに定番で登場するようになり、これはもしかすると、当時まだデビュー前であった沖さんの知名度を上げるのに大きな助けとなったかも知れません。
 やがて新たな吾妻ファンたちは結集を始め、”無気力プロ見学ツアー”として(?)沖さんが仕事場への案内をなさったりしていましたが、後にファンたちの自発的な行動により、吾妻先生のファンクラブが誕生したようでした。
 既に『不条理日記』を別冊奇想天外の1978年12月号で発表しておられた吾妻先生でしたが、ついには日本SF界の総本山であろうSFマガジン(1979年10月号)に『メチル・メタフィジーク』の連載を開始されるに至ります。そして『不条理日記』は1979年の第10回(第18回日本SF大会)星雲賞コミック部門で受賞することになったのでした。
 吾妻先生への評価の高まりと人気はSF方面にとどまらず、1982年5月からは『オリンポスのポロン』がTVアニメ化されて放映開始となり、雑誌インタビューを受けた吾妻先生が「もうアニメ成金を目指すしかないでしょう(笑)」とか冗談まじりに語っておられたのを読んだ記憶があります(付記:これはどうも月刊OUT1982年6月号の記事だったらしい?)。さらに『ななこSOS』も1983年4月からTVアニメが放送開始となります。アシスタントであった沖さんもこの頃にはプロデビューがかない、アニメックという雑誌では連載を持つまでになられました。
 こうしてめでたい事が続き、僕もそれは本当に良かったと喜ぶ日々でした。しかし僕の立場ではこの当時、複雑な思いもちょっとあったのです。



(17)ディレンマ

 「オリンポスのポロン」は月刊少女マンガ雑誌であるプリンセスの1977年10月号から連載が始まるのですが、この作品については企画が決定した段階で沖さんが僕にちょっとだけ情報をリークしてくれて、知っていたように記憶します。当時、僕自身がギリシア神話は大好きで、それが吾妻先生の手によってマンガ化されるとくればもうこれ以上理想的な事はないと思いました。僕は大喜びで吾妻先生へ手紙を書き、さまざまな神々が先生のキャラクターで描かれるのをすごく楽しみにしている旨を伝えたのでした。この手紙を読んで、(沖さんいわく)吾妻先生は「こういう人がいるんじゃ描きにくいなア」と弱っておられた由。変にマニアな読者というのはマンガ家にとって不自由をもたらす厄介な存在になってしまうのでしょう。沖さんも連載開始前に僕へ「神殿の柱、真ん中をふくらまさないよ!? 定規で線引いちゃうからね! 柱の頭の部分も何々式とか図解があるけどさあ……そんなモン描いてられっか!!」と宣言されるので笑ってしまいました。僕も別にそうした事で注文をつけるつもりは毛頭無かったのです。そしてついに連載が始まりました。
 第1回を読んでみて感じたのは意外にも「何かが違う」という戸惑いで、その理由が一体何なのか自分でも把握できませんでした。「エイト・ビート」や「きまぐれ悟空」の頃に比べると絵はより綺麗になったようですが、それに反比例して夢が減ったような印象を受けたのです(全く自分でも、ファンというのは無茶苦茶な不平を言うものだとあきれてしまうのですが)。
 吾妻先生の作風や絵柄が微妙に変化していたのは事実であるにせよ、同時に読者である僕の側にもあれこれ変化があり、それによって波長が合わなくなってきていたのではと思えます。だから言わずもがな吾妻先生には何の落ち度も無いわけですけれど、生じ始めたすれ違いはどうしようもありません。
 しかし80年代直前になってからの吾妻先生の躍進ぶりは実に目覚しいもので、そうした成功は、もはや疑うべくもなく”吾妻マンガは現在の作風で良いのだ”という事を証明しているようでした。そして僕のような”ファン”は発言を控えるようになり、少しずつ読者としての立場から退いてゆくようになったのです。
 たしか沖さんは1980年までに転居され、僕はその引越しをちょっと手伝ったのですが、はて沖さんの転居先がどこだったやら、今となっては分かりません。アパート老朽化による取り壊しが転居の理由だったようですけれど、これは僕にとっても1つの区切りとなりました。というのは、沖さんの新しい住まいへ僕は一度も遊びに行った記憶が無く(お手紙を出した事はあったと思うのですが)、その頃に、無気力プロと僕の間にあった細いつながりは、時たつうちに薄れてゆき、ついには消えてしまったからです。



(18)「シベール」創刊当時

 とはいえ、別に沖さんとケンカ別れしたとかいうわけではありませんでした(たぶん……)。20歳前後というのはまだ、誰でもある程度そうなのか僕も生意気盛りなうえに分別(ふんべつ)不足からくる愚行と無作法のし放題で、吾妻先生も、みぞろぎさんも、沖さんも、僕のせいでさぞ嫌な気分になってしまったろうなと今になって忸怩(じくじ)たる思いにはなるのですが……。
 沖さんというと”黒本”「シベール」で有名らしいのですけれど、残念ながら僕はこれについて全く関与しておらず完成品を見たことすら無いので何も知らず、書けません。しかしどうもその創刊準備をしていたのではと考えられる記憶は幾つか残っています。
 或る日、無気力プロ(昼下がりで無人だった)へ沖さんと行ってみると、フェルトで自作した人形がいくつか吊り下げてあるのです。それは翼のある奇妙な猫とかで、沖さんの解説によれば筒井康隆の小説に登場するものだということでした。他にも「みぞろぎ人形」というのがあり、すごく脚が長くてかっこよく作ってあるのですが、その脚をつまんで引っ張るとこれがスポンと外れ、中から短い脚が現れるという仕掛けになっているユニークなものでした。この人形の作者は男性であり後日お会いする事になるのですが、もしかすると彼こそが蛭児神建その人だったのかも知れません(2006年7月17日付記:沖さんのお話によれば、その通りだったようです)。実を言えば沖さんは、ちゃんとその人を僕に紹介して下さったのですけれど”(自室には)膨大な数の同人誌を所有していて、いつもその上を転げ回っている(人だ)”とか、沖さんが紹介というよりも冗談ばかり言うので僕は思わず笑ってしまい、以後その人とお会いする機会が無くて、この時の冗談はいくつか明確に覚えているのに、肝心のお名前(本名だったと思われる)のほうを思い出せなくなってしまったのでした……。
 当日は仕事開けだったのか、吾妻先生はじめ一同が喫茶店のカトレアでモーニングセットを取って同じテーブルにいた時、その人もそこに居たのですけれど、沖さんが吾妻先生からペンを借用し、ゆで卵の殻に顔を描いてその人に渡すと「ぶつも良し、ムチでしばくも良し」と笑いました。僕は何のことか分からないので「(マザーグースの)ハンプティ・ダンプティですか?」と訊ねたら、その人は同人誌らしいものの編集後記のところを見せて下さいました。そこにある(編集長の?)自画像がハンプティ・ダンプティを模したそれになっていたのです(付記:『出家日記』p.38に「当時の私の自画像はハンプティ・ダンプティであった」という一文があり、同p.44に「フェルトのマスコットは得意だった」と記されています)。
 沖さんはその人と、同人誌発行について相談するために朝のカトレアへ来てもらったようでした。「見本誌を1冊、即売会主催者に提出するきまりで……」と聞かされた沖さんが「あ、提出しなくちゃいけないの?」と言っていたりしましたが、一体何を発行しようとしているのか僕には説明してくれません。パソコンもワープロ専用機もまだ普及していなかったので文章は活字ではなく手書き文字という時代だったのですが、彼はその清書を担当していたらしく、誰だかの原稿を清書していて「落ち込んじゃったよ」と語っていたのを覚えています(2008年4月13日付記:このとき僕もちょっと見せて戴けた同人誌用版下のなかに『可菜』という作品が確かあって、そのトビラを見た沖さんが、
「なんじゃそのタイトルは?」
と不思議がっておられた記憶があります。これは小説だったみたいなのですけれど、ひょっとするとヒロインの名前から来ていたのかも知れません。『アップル・パイ アニメージュ増刊 美少女まんが大全集』(1982年3月30日発行)の巻末にある『映画・文学編 永遠の美少女辞典』という記事(文・寺田洋一/望月智充)には「可菜」というキャラクターの説明があり、それによれば作者は「夢見猫」、"「幼女嗜好」所収"なのだとか。)。そのあと解散し店を出て、沖さんとその人と僕の3人だけになりました。
 すると沖さんが悩んだ表情で「この人(と言って沖さんは僕を指差しました)も入れちゃおうか」と提案し、「いや、この苦しみに人を引きずり込むのはつらい」とその人が止めたのでした。もしこの謎の会話が「シベール」創刊準備に関するものであったとすれば1979年4月以前であり、この時に吾妻先生の『猫日記』(月刊OUT1979年3月号)の話もしたので、たぶん1979年春の出来事だったのでしょう。



(19)馬鹿は死ななきゃ治らない

 で、沖さんは近所から転居され、僕は沖さんの主催する同人誌に関与せず、無気力プロ発行の新聞「ALICE」はすでに休刊していたため、沖さんと僕のつながりも雲散霧消し、僕が無気力プロへ出向く事も全く無くなりました。僕は一介の読者に戻り、雑誌など出版物を通じて吾妻先生のご活躍を傍観するのみになったのです。

Oki_book
 80年代初頭には沖さんの作品がアニメックに奇想天外、さらには「美少女マンガ」と当時呼ばれたジャンルの雑誌でも掲載されるようになり、かなりお忙しくなったろうことがうかがえました(のちに「天翔けるセールスマン」(徳間書店 1984年7月10日発行)や「Beおんざろーど」(一水社 1985年5月15日発行)など単行本も発行されたようです)。その頃にはもう吾妻先生のファンクラブが軌道に乗っていたと思うのですが、僕はそれに参加する事はしませんでした。何故かというと、当時に最も元気だったファンの人たちと僕と微妙に世代がずれていて、共通する要素が殆ど無いのではと思えたからです。受賞までした「不条理日記」でしたがSFに知識の乏しい僕は読んでみても理解できず困惑するばかりだったのが正直なところで、つまりは同じ”吾妻ファン”でありながら興味関心の重なる領域が乏しく、行動を共にするのは難しいだろうと感じられたのでした(だから別に、それら自分より若いファンの人たちとの間に何か摩擦が存在したとかいう事ではないのです)。
 そのように、SFについて僕は門外漢でありましたが、あまり流行に左右されず安定した支持者層を常にもつ領域であろうと思えたので、これで吾妻先生は日本SF界において地位を不動のものにされ、思う存分本領発揮できるようになったのだろうなと喜ぶ一方、吾妻先生は自分にとって分からない世界の人になってしまわれたと淋しくも思いました。
 吾妻先生の作風の変化によって僕は吾妻作品をだんだん読まなくなり、読むものを失って、結局マンガ全般を殆ど何も読まない人間になりました。で、普通の読者ならここで「卒業」してしまうのかも知れませんが、ファンにまでなるような人間は頭が少しおかしいのか僕だけがそうだったのか、自分で下手なマンガを描いてみるようになってしまったのです。いかれたアマチュアとなった僕は同人誌の世界へ首を突っ込むようになり、(どういうきっかけで出会ったのか忘れましたが)葉影立直さんと知り合い、彼が編集・発行する同人誌へ愚作を掲載してもらえて、お付き合いさせて頂くようになったのです。そうしたら、これまた偶然なのか世の中が狭いのか、葉影さんは吾妻ファンの組織と交友がある人だと後で分かってびっくりしました。僕は葉影さんと一緒に同人誌の即売会へ行きお手伝いさせて頂いた事があるのですが、その時、同じ会場に、あの沖さんが主催するらしいサークルが来ていると葉影さんが教えてくれました。「行けばきっと会えるよ?」と彼は言い、僕は少し悩んだのですが「いや、もう僕の事を覚えてないでしょう」と返答して、沖さんにご挨拶しに行くのはやめてしまいました。とはいえその会場はあまり広大ではなかったので、ちょっと出歩くと沖さんのサークルの机が見えました。そこには沖さんかと思われる人が居て、アライグマの毛皮で作ったような帽子を被って座っているようでしたが、遠目なのでよく分かりません(付記:『出家日記』p.97に「冬場は青の綿入れ半纏にアライグマの帽子(尻尾付き)で活動していた」とあるので、僕がこの時に目撃したのは蛭児神建氏であったのかも知れないです)。そして(それはたぶん1985年頃だったのですが)以来、沖さんの姿を僕が見ることは無くなったのでした。




沖君のこと




(天翔けるセールスマン 1984年7月10日発行)

*これは沖さん最初の単行本によせられたマンガで、何が得意か、しかし何は得意でないか、みたいな対比が語られています。



(20)さまよう年月

 私事にわたって恐縮ですが……。僕自身も下手くそなマンガを描いていました(学生時代に始めたそれを社会人になってまだやめられずに続けているあたり、マトモではないのでしょう)。大手出版社の募集に応募したらなぜか最終選考まで残って、変な自信を持ったのが間違いの始まりでした。別の雑誌で努力賞というのを2回ほどもらって、そこでやめればいいのに同人誌に参加させてもらい、やがて或る雑誌社へ持込をし、デビューさせてもらえました。ただしそれは18歳未満お断り(本当は)なマンガが専門の、当時次々と創刊していた「美少女マンガ」雑誌のひとつだったのですが。
 で、そこで3回掲載してくれて、原稿料をもらいました。……それっきりです。なぜかと言うと、僕はどうしても性描写ができなかったからでした。根はどすけべなのに、描こうとするとどうしても描けなかったのです。下手くそでつまらないくせにそういうサービスもしないような新人にお金をくれるほど業界は甘くありません。しかし僕にとってそれで充分でした。自分にはプロのマンガ家になってやってゆく才能や実力など無いことをはっきり自覚できたからです。そして休筆(大げさ)していたら、1989年にとある事件が発生した影響か、お世話になったマンガ雑誌はやがて休刊してしまいました。編集長が別の人になった時、連絡は頂いたのでしたが、業界へ復帰して留まる努力はしないことに決め、残りの命はできるだけカタギっぽい人生をおくるようにしたのです。

Tutui
 さて、そうなると自分にとってマンガは意味の無い要素となって完全に読まなくなりました。しかしある日、ふと書店で平積みになっている本に「吾妻ひでお」の名前があるのを見、おもわず手にとって立ち読みしたのでした(どうも「筒井漫画?本」(実業之日本社 1995年10月)の「池猫」だったらしい)。僕は驚き、思いました、「すげえなあ、吾妻先生はまだSFで最前線の現役なんだ……オレはなぜ先生みたいになりたいなんて身の程知らずな幻想を懐いちまったんだろう?」。そして絵を見ると震えているような描線だったので「へー、最近はこういう画風で描いておられるのか、こりゃ手間がかかりそうだ」と感心したのでした(僕は本当にそう考えたのです。後で、どうもそうではなかったらしい(?)と知り仰天したのですが)。しかし結局僕はその本を買う事も、もう一度吾妻マンガを買いあさって読みまくってみようともしませんでした。自分が何も成し遂げられなかったマンガ業界へ再び目を向けるのがつらかったのだろうと思います。かわりに息抜きにはパソコンをいじくって遊んでいたのですが、インターネットは21世紀になるまで手を染めませんでした。自宅にネット環境を導入し、いろいろなデータを見ていたら、2005年3月、「吾妻ひでお」の名前がいやにやたらとあちこちで目立つのです。一体何事かといぶかりまた懐かしく思ってよく読んでみると、信じられないような記述だったので言葉を失いました。その時、偶然で「池猫」を読んだ日からおよそ10年が過ぎており、僕が無気力プロとのつながりを失ってほぼ25年が過ぎていたのでした。




池猫




(筒井漫画涜本 1995年10月26日発行)

*筒井康隆の短篇をマンガ化した作品で、台詞も効果音も一切無い。
 だいぶ写実的な絵柄になっている事にも驚いたのですが、人物の描線にあちこち震えが見られ、しかもそのストローク(一筆で引かれる線の長さ)がひどく短いようだったので、奇妙に感じました。僕はこれをてっきり、意図的に演出した手法なのだろうと思っていた訳で……。



(21)浦島太郎の驚き

sisso
 最近になって物凄い勢いで増加したらしい”ブログ”において、同じ本(表紙がオレンジ単色のこざっぱりした色調なので目立った)がやたらと話題にとりあげられているように見える。図書の紹介がそこいら中で行われているのは広告収入が支払われるためらしいと後で分かったのでしたが、どうもマンガについての研究サイトというわけでもないような所でさえ扱っているこの本はいったい? 見れば表紙にはでっかく「吾妻ひでお」とある(これだけ大きな活字で作者名が記されているのは珍しく思えた)ので驚き、文章を読んでみたのでした。
「失踪日記 吾妻ひでお」
「全部実話です(笑)」
「突然の失踪から自殺未遂・路上生活……」
こういったテキストを読んで最初に何を感じ考えたのか、今年の事なのに記憶がありません。ひどく驚いたのと半信半疑で何がどうなっているのか分からずぼんやりしていたような気もします。僕が「失踪日記」を入手した時には奥付に2005年4月8日第3刷とあり、2005年3月8日が第1刷のようですから大変な速さで増刷されているのが理解できました。いっきに通読してちょっと放心していたでしょうか。やがて僕はあれこれと検索し情報を集め始めました。大手新聞の記事などもネット上で読む事ができ、少しずつ頭がはっきりしてきたのです。
 調べてみたら奇想天外はマンガ専門誌のほうのみならず本誌のほうがとうに休刊しているようであり、この25年の間に、みぞろぎさんも沖さんもアシスタントの立場から離れてしまわれたらしいと知りました。こうなるともう僕に分かる事は何もありません。
 なんとなく頭に浮かんだのは、およそ30年前、一番最初にカトレアで吾妻先生とお会いした日の事でした。僕は吾妻作品に登場する自画像”アーさん”が先生にまるで似ていないと感じて驚いたのでしたが、実はあの日から後もずっと、先生について僕は幻想を持ったままでいたのではないか? と思えてきたのです。
 自虐ネタを連発しそれでもいつも笑顔でいる自画像”アーさん”の姿に慣れて、吾妻先生は徹底的に不屈で楽観的なかたなのだと信じ込み、それゆえ、鬱(うつ)、あまつさえ失踪や自殺未遂といった事柄が吾妻先生には全く無縁なように考えてきたのではないだろうか? あの自画像で描かれたものはやはりあくまでも「作品(として昇華されたもの)」であって現実そのままというわけではなく、楽屋裏では吾妻先生のたいへんな苦悩がずっと続いていたのではなかったろうか? 先生は今日までずっと、「僕はギャグ漫画家だ、だから泣いてはいけないのだ」という厳格な自己制御をされ、自画像キャラクターを通じて”吾妻ひでお”を演じて(描いて)こられたのではないだろうか? と。



(22)自画像ギャグの落とし穴

 喜劇役者がTVなどで「ばか」を演じる時、幼い子供はそれを観て本物の「ばか」なのだと信じてしまうように、ぼくら読者は「自画像」によって創作がなされると、それを作者そのままなのだと信じてしまうのではないでしょうか(まして吾妻マンガには、自画像が非常に多く登場するという特徴があるのです)。
 「失踪日記」p.128には板井先生のコネで新人の時に仕事をもらっていたかのような記述があります。けれど、僕の記憶と知っている事が正しければこれは「ウソ」です。沖由佳雄さんがかつて僕に話して下さったところでは、デビュー直後に吾妻先生は師である板井先生からお叱りを受けたそうなのです。「まだ早いぞ」ということだったらしいのですが。……このように謙遜で描いてある(と僕には思える)事も読者はやはり真に受けてしまい、「みろ、吾妻は実力も無いくせにコネで世に出たと自白してやがる」と誤解してしまうのでは、という気がします。
 加えて、作品がギャグ漫画である場合、そこには独特のリスク(危険)が伴うように思えます。作品という最終結果のみを読むと、作者が自分で描いて自分で面白がってふざけているだけのいい加減なものにしか見えない場合が多く、ましてナンセンスで笑わせるものの場合にはその感覚があわないとさっぱり笑えず出鱈目を並べてコマを埋めているとしか思えないケースが多いのではないでしょうか。本当は、ギャグのアイディアを1つ出すのにさんざん苦労しているとしても、そんな舞台裏は作品において絶対さとられないことが喜劇では要求されると思われます(送り手の艱難辛苦が表ににじみ出てしまっているような喜劇だったら誰がそれを観て笑うことができるでしょうか)。わざと難しい書き方をして読む者を圧倒してやろうとするところが何かの論文などにもしあるとすれば、マンガというのはわざと”ちゃち”に見えるように描いて読者をくつろがせ親しみやすさを感じさせるのが戦術であろうと僕は考えるのですけれど、どうでしょう。
 「ふたりと5人」等を読んで僕ら読者は「このくらいなら自分だって描けそうな気がする」と思うかも知れません。「もっとましなものさえ描けそうだ」とまで考えるかも。しかしそれは殆どの場合、空想の可能性ではないでしょうか。「ふたりと5人」は全部で194話あると思いますが、その十分の一の19話ぶんでさえ大抵の読者はアイディアを出せないだろうと思うのです。もし可能だったとしても、毎週1話以上のペースで確実に思いつく読者が実際には何人いるでしょう。プロの漫画家はそういうしんどい頭脳労働を数十年間にわたって続けることができなくてはならないのです。そしてもしそれをこなせたとしても、出版社や読者は漫画家の努力なぞ考量してはくれず最終結果である作品だけが全てで、面白くないと感じれば拍手ではなく罵声を送ってきて、おまけに飽きっぽいときています。プロの漫画家はそういう環境にずっと忍従せねばなりません。
horoh2
 「失踪日記」は吾妻先生の壮絶な人生経験のなかから生まれ完成し、第34回(2005年度)日本漫画家協会賞で大賞を受賞、平成17年度(第9回)文化庁メディア芸術祭マンガ部門でも大賞を受賞しました。これらの賞は吾妻先生の資質に対して適切な評価がなされた結果であろうと(僕は何の教養も眼識も持たぬ通俗なアマチュアであり平凡な一読者に過ぎませんが、それゆえになおさら)確信しています。



(23)ほっと一息

 ひとの人生を赤の他人がどうこう言うのは僭越(せんえつ)きわまりない事でありましょうけれど、頭に浮かぶ言葉があります。「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」というものです。意味をご存知ないかたもおられるかも知れませんが、この言葉の元になった物語はあえてここに説明しません。よろしければちょっとお調べになってみて下さい。きっと興味深く思われるだろうと存じます。
 「無気力プロ」が現在もなお存続しているのかどうか、僕は何も知りません(アヅママガジン社というのは存在するみたいなのですけれども)。1986年7月に発表された『ななこ&ひでおのイラストーリー』(ハヤカワコミック文庫 「ななこSOS 3」2005年5月10日発行 に収録)だと、「会社は破産状態」といった記述があるのですけれどこれはある程度本当だったのか、「オリンポスのポロン2」(ハヤカワコミック文庫 2005年2月10日発行)のあとがきでは会社が無くなったらしい事が書いてあります。
genjitu
 しかし……。いろいろアヤシイのです。前述した「ななこ&ひでおのイラストーリー」で、「アシスタントも皆逃げ出してしまい」と書いてあるものの、これは冗談まじりらしい。「comic 新現実 vol.3」(角川書店 2005年2月26日発行)にあるインタビューを読むと、沖由佳雄さんは単行本を上梓(じょうし)なされた後、吾妻先生から独立をうながされて巣立ったらしいんですよ。
 もう!
 いったいどこまでマンガで、どこから本当なんだか……。
 お子さんの御芳名をあちこちに書いてしまっておられる(本当に実名なのかどうか僕は知りません)一方で奥様の御芳名は書かないようにしておられるし(それでいて作品中にこっそり埋め込んであったりするようだし)、このへん、吾妻先生にはいたずらっ子みたいな茶目っ気があるようで、いやはや、かないません。そしてそのあたりこそが吾妻先生のお人柄の魅力であり、作品の楽しさなのでしょう。
 こうなったら読者たるこっちも開き直らなくては。次々と読書感想作文みたいなものを書き散らし、このブログを続けてゆこう。と、このように思うのでありました。



(24)追記:あの場所は今

 1979年(「シベール」創刊当時)の地図が見つかったので、それを頼りに思い出の場所へ出向いてみました(2006年8月)。もし、後になって間違い等が判明したら訂正させて戴きたいと思います。とりあえずの報告ということで、どうぞご了承下さい。
Eki
 まずは西武池袋線・大泉学園駅。画像は北口です。1977年当時、吾妻先生の仕事場はここから徒歩で行ける距離にありました。立派な歩道橋が出来て、昔日とはだいぶ印象が変ったのではないかと思います。

Cattleya1
 つぎに「純喫茶カトレア」。これは北口のすぐそばにあったのですが、現在はその場所に画像のような巨大ビルが建っており、もはや存在しないようです。1999年の地図だとこのビルはまだ載っていないので、その頃まで「カトレア」は営業していたのかも知れません(?)。

 そして「無気力プロ」があった場所なんですが、行ってみたら、どうも既に取り壊されて今は別の家屋が建っているようでした。近所の神社はさすがにそのままだったのですが(画像)。
S_shrine

 『やけくそ天使』の『むちゃくちゃ』など作品中に時々登場している"練馬区西大泉町2036番"というのは、上述した1979年の地図で見ると、どうも当時の吾妻先生のご自宅住所であったようです。ちなみにその頃、仕事場であった「無気力プロ」が存在した住所はというと、"練馬区西大泉町2027番"がそれだったようで、『ミャアちゃん官能写真集(1981年)』を送料込み400円(本体定価は200円だったらしい)で通販を受け付けていた宛先がこちらになっていたみたいです。
 練馬区西大泉町は昭和56(1981)年に住居表示を実施して"西大泉"となり、地番も変更されたようで、2036番も2027番も今は、ありません。また、かつてそれらの番地であった地点は現在、「無気力プロ」と全く何も関係の無い場所となっています(さらに言うと、現在の吾妻先生のご自宅ともかけ離れています)。いまや静かな住宅街となっているこれらの場所へ僕らが出向くのは、住民のかたがたにご迷惑をおかけするおそれがあるでしょうし、やはり慎んだほうが良いのでしょうね。





inserted by FC2 system