吾妻ひでお Early Collection


 この作文を書いている時点(2019年1月15日)ではまだ現物が世に出ていないのだが、「やれやれ、やっとここまでこぎつけたのか……」と、奇妙な感慨を僕は個人的に味わっている。その理由は、この書籍が、吾妻ひでおデビュー作とされる『リングサイドクレイジー』を収録した最初のものになるからだ。作品の初出は1969年なので、待ちも待ったり、その歳月たるや何と50年間。

 5 0 年 間 だ ぜ !?

 厳密に言うなら「デビュー作」とか「最初」とか呼ぶのは、いろいろ問題があるのだろう。

 うるさ型のファンなら知っている通り、作者が商業誌にマンガ作品を発表する事になったのは(『リングサイドクレイジー』よりも)『ミニミニマンガ』(週刊少年サンデー 1969年3月30日号)のほうが先であるし(他にも「先」だった候補は存在するかも知れないが)、『リングサイドクレイジー』を単行本へ収録したのは同人誌『吾妻ひでおに花束を』(1979年12月31日)がおそらく最初だからだ(これの増補改訂版といった感じのものが同人誌『妖精の森』(1981年7月31日)になる)。

 とはいえ――これまたご存知の通り――『ミニミニマンガ』は挿絵とマンガの中間的な作品であるし、物語性とまとまったページ数をもつもの、となれば『リングサイドクレイジー』がデビュー作になるのだろう(実際、作者自身が、無気力プロ発行のコピー新聞『ALICE』の最初の号に、セルフインタビューのような形で、『リングサイドクレイジー』をデビュー作だと語っていたように記憶する)。また、プロの出版社が上梓(じょうし)する書籍で『リングサイドクレイジー』を収録したもの、という条件で絞るならば、今回が最初の単行本収録と呼べるのだろう。

 そのようなコダワリはさておいて――とにかく、他の点でもいろいろ「最初」になる、大変貴重な本だろうと思う。たとえば、『二日酔いダンディー』全話がこれまでに単行本収録された事は1度も無いはずだ。『不条理日記』『失踪日記』とかは、もしかすると今後も繰り返し出版される(?)かも知れないけれど、今回の如き内容の書籍は、再び企画される日が、そしてそれの実現する日が来るかどうか? そりゃ、絶対に無いなどと未来予測するのは誰にとっても不可能だろう。しかしそれが、もしも今から更に50年後だったら、僕がそれを入手できる見込みはおよそ無い……。

 そんなわけで僕は、本書を手にできる日が誇張なしで待ち遠しいのだった。


(2019年2月27日 初版発行)

 さて、ようやっと現物が届いてくれた。特典としてカラー原画の複製ポスターも付属。4葉のイラストが用いられており、そこに記入された日付は「'03.4」「'04.3.5」「'03.3」「'04.3.10」とある。


 書籍本体では、原稿が行方不明の作品を収録するため、それが最初に掲載された、当時の、古い印刷物から復元と補修がおこなわれたようだ。それによって複数の作品が今回、「単行本初収録」をついに実現できている。
 さらに他にも、「初収録」となったものがある。作者自身による「著者解題」がそれで、これらは「新作」の初公開に匹敵する価値を持つと思う。
 この「著者解題」には全く初耳の事柄もいろいろ記されており、読んで大変驚いた。



 たとえばデビュー作『リングサイドクレイジー』について、

「アメリカのMADという雑誌の絵柄をパクってる」

のだとある。どんな経路でそれを読むことができていたのかは語られていないのだが、当時はまだ為替レートが1ドル=360円の固定相場制であり(これが変動相場制になるのは1971年8月28日から)、輸入雑誌は非常に高価であったはずだ。米国の有名な風刺マンガ雑誌である『MAD』(毎回表紙に登場する Alfred E.Neuman というキャラクターは1965年に AURORA 社からプラモデルの人形が発売された事さえある)はこのころ日本でも良く知られていたらしく、モンキー・パンチはたしかその執筆者の一人と手紙のやりとりをしていたと記憶する。また、これに連載されていた『Spy vs. Spy』などは週刊少年サンデーに一時期連載されていたはずで、いろいろ日本のマンガ界に影響を与えていたらしいとは知っていたけれど、まさか吾妻ひでおもそれを参考にしていたとは全く知らなんだ……。

 さらに驚いたのは、

「当時は格闘技マニアではなかった」

と語られていること。僕はてっきり、生来の格闘技好きだったから吾妻ひでおにこの仕事の依頼が来たのだろう……と思い込んでいたのだが、なんと事実は逆であって、この注文と執筆がきっかけで格闘技マニアへの道がつながったらしい(?)。ああ、知らなんだ、知らなんだ……。

 『荒野の順喫茶』にも解説があるが、やはり、

「予告では「幸せを売る男」だった」

と語られている。そう言われて見直すと、確かに、初めて店にやって来る男性客の風貌は、予告カットの人物に酷似しているようだ。という事は、予告カットが描かれたのは1970年であり、(書籍『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2』にある)「1971年」というキャプションが「1970年」の誤植だったのではないかと思える。

 『葉がくれマック』については当時、映画『女番長 野良猫ロック』の影響を受けたことが明かされている。へえ~? そりゃまた、知らなんだ……。

 『由起子の肖像』(引用者注:これは「由紀子」の誤植だろう)は、

「編集がおおまかな話を作った」

のだそうだ。1970年ころ講談社の『週刊少年マガジン』などは連載作品のほぼ全てに「原作」をつけるという分業システムを信奉(?)した編集方針で有名だったように記憶する。だからか『ママ』では吾妻ひでおに原作付きを描かせたようなのだが、マンガ家にとってはいろいろ不自由な環境だったろう。

 そしてこのあと、『二日酔いダンディー』の全話が、ついに初めて収録されている……!


 この書籍にある作品は、以下のとおり。

リングサイドクレイジー
荒野の純喫茶(プリンアラモードとパインローヤルの巻)
荒野の純喫茶(LOVEの目的格の巻)
葉がくれマック
由紀子の肖像
二日酔いダンディー(1~18話)

 ほぼ全て旧サイトで紹介済みだ(上述の文中で、題名に下線を引いてあるのが、その記事へのリンクです)。
 それゆえ、ここでは初収録が実現した『二日酔いダンディー』3話ぶんのみ、「あらすじ」を紹介させていただくことにしようと思う。

第4話 パーフェクトプラン


(別冊まんが王 1970年8月15日 夏季号)

 ネオンきらめく夜の都会――。そのどこかにある、廃墟だろうか、一見全く無人のような区画の、地下室では、漏水したたる天井に灯りがともっており、タバコの煙がその空中に漂っていた。
 どうもカタギとは思えない風貌の奴らがテーブルについている。全部で9人。皆が、顔を半分隠しているような感じだが、ダンディーたち3名の姿もそこにある。座席の配置からして、リーダーがいるようだけれど、口をきいたのは何と、アーさんなのだった。
「計画は以上だ! なにか質問は?」
 どうやら大掛かりな犯罪の打ち合わせが行われているようなのだが……。

*トビラにはちょっと写実的な顔も描かれていて、雰囲気たっぷり(ところが、これらの人物は、このあとに続く本編で登場しない!)。
「ア~カイ マントに 黒マスク~」というのはTV番組『まぼろし探偵』主題歌のパロディか(この作品は吾妻マンガで時々ネタになっており、『やけくそ天使』ではヒロインが歌を歌っていたり(『オレたちには明日があ~る~さ~♪』の回)、『エイト・ビート』では主人公が真似たような扮装をしている回(『冒険者たち』)がある)。
 また「テイキョーは中田商店」というナレーションがあるが、この中田商店というのは模造拳銃などを発売していたメーカーの屋号で、今も東京都台東区に健在だ。
 それにしても、こういった回を読むに、当時流行していたフランスのフィルム・ノワール( ≒ 犯罪映画)からの影響があったのではないか? という気がしてくる。

<メモ>
 洋画における暴力描写は、日本でマカロニ・ウェスタンと呼ばれたイタリア西部劇(1964年『荒野の用心棒』など)あたりから強まったかに思える。こうした傾向は米国の探偵もの(1968年『ブリット』)やフランスの犯罪もの(同年『さらば友よ』)にも引き継がれ、『シシリアン』(仏1969年)、『雨の訪問者』(仏1970年)、『狼の挽歌』(伊1970年)と展開して流行し、『ゴッドファーザー』(米1972年)などに至ったようだ。


第9話 セールスマンは何度でもベルを鳴らす


(別冊まんが王 1970年11月15日 秋季号)

 賑やかな駅前。歩道をゆく2人の男がいる。見れば、片方はダンディーだが、珍しくも背広にネクタイという、まっとうな社会人ふうの姿だ。
「そもセールスというもんはねキミ」
と、彼を教えている男はどうやら、営業成績がトップの優秀な人物らしい。
 ところがどうにも遊び半分な勤務態度のダンディー。見限られ、単独でやってみる破目になった。
「セールスのバイトでもしなきゃ……冬をこせないもんね~~」
と、度胸だけは並外れているようで、何の緊張もせず最初の家のドアベルを鳴らす……。

*サブタイトルを誰が考えたのかは不明だが、小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のパロディか。
 冒頭の場面で見える「あさがや駅」は、実在するJRの「阿佐ヶ谷」(東京都杉並区)がモデルなのかもしれない。ナンシーが独特の服装で登場するけれど、映画『夕陽のガンマン』(1965年)あたりがヒントか。(服の「へり」や「すそ」がヒラヒラになっているのは、僕の記憶がもし正しければ、濡れた時に少しでも早く水をきって乾燥させる為の工夫として考案されたデザインで、『デイビー・クロケット 鹿皮服の男』(1956)や『アラモ』(1960)など、西部劇映画ではしばしば登場していたようだ。)


第14話 ナンシーよ銃を取れ


(別冊まんが王 1971年2月15日 冬季号)

 街角を走り来る2人組の男たち。彼らは機関銃を使い、銀行から出てきたばかりの男を襲撃する。その手口は徹底的に冷酷で荒っぽい。
 いっぽう、街のどこか、ビルの一室にある小さな新聞社では、刷り上がった新聞のチェックが行われていた。どうも社員は2人、ダンディーとナンシーだけのようだ。
「儲かんなくていいの あこがれの新聞記者になれたことだし」
と、ナンシーは言うのだが、
「ほんでも売れんことには 生活がなりたたん!!」
と、ダンディーが怒る。それで結局、
「サツまわりでもして ネタをあさろーっと」
ナンシーはそう決め、部屋を出る。
 そのころ、『真昼のギャングそうさ本部』では、新聞記者たち――ただしダンディーとナンシーの姿は無い――が集まっていた。彼らが質問攻めにしている相手、警察の主任は、なんとアーさんなのだったけれど……。

*ヤケクソ的な暴力描写で話の幕が開く。さては編集部から注文が付き、嫌々ながらの開き直りで執筆したか? などと思わせる展開だ。
 なぜそのような印象を受けるかというと、書籍『逃亡日記』のインタビューで、吾妻ひでおは若かりし頃、ハードボイルド系の劇画が好きではなかったらしい事のうかがえるくだりがあるからなのだ(Chapter 3 生い立ちとデビュー / プロの原稿に打ちのめされた)。にもかかわらず、この回では目一杯、そういう場面を描いている。はたして執筆当時の真相や如何に?

「おはようブリックスくん……」という台詞は、米TVシリーズ『スパイ大作戦』(1966~1973年)で毎回冒頭に言われていたそれであるらしい(?)。


 画像は、文庫版(2015年11月30日 第一刷)のカバー。


 吾妻ひでお最初の連載作品の主人公となったダンディーは、のち『エイト・ビート』にも出ている(? 『モーレツスパルタ呪いのキャンプ』の回)が、なぜか警官になっているので、同一人物なのかどうかは、定かでない。

 ナンシーもまた、『エイト・ビート』に登場しており(『えー、探偵屋でござい』の回)、こちらでは名前までが、ほとんどそのまま。同一人物なのだろうか???

 作者自画像でもあるアーさんが、この後、ありとあらゆる吾妻作品に出演しまくっているのは、御存知の通りだ……。


 いろいろ驚かされた本書ではあるけれど、それにしても『二日酔いダンディー』には不可思議な事が多いなあ? と感じる。

 たった18回の連載で、これだけ多く「カラー」で描かれる機会のあった吾妻マンガは、ちょっと他に無いのじゃあるまいか? 人気絶頂の時期だったとかいうのならばともかく、デビューまもない新人時代に、最初の連載作品で、これだけ多くカラー原稿が描かれていたとは知らなんだ……。

 ふり返ってみると吾妻ひでおは『リングサイドクレイジー』(1969年12月)の前に、『ハレハレ アニマルミステリー』(1969年11月)が『まんが王』では掲載されているけれど、そのあと以下のような読み切りを同誌に描いて、それから『二日酔いダンディー』連載開始となったようだ。

『ザ・トンズラーズ』(1970年月 春休み増刊号)
『真冬のミステリー』(1970年1月)
『人類抹殺作戦 (秘)指令Z』(1970年1月)
『エスパーの六大超能力!』(1970年1月)
『宇宙ラッシュ! 希望にみちたきみたちの未来図』(1970年1月)
『ウェルカム宇宙人』(1970年1月 お正月大増刊号)
『一分間まんが』(1970年2月)
『栄光の1970年! YOU ONLY LIVE TWICE』(1970年2月)
『直滑降思考によるイチャモン学入門』(1970年4月)
『タイガーパンツ』(1970年4月)
『あなたまかせのノンポリ球団』(1970年5月)

 よって、デビューから約半年で連載を持った、という事になる。


 月刊誌『まんが王』は1971年で休刊し、吾妻ひでおは『荒野の純喫茶』(1970年8月)以後、おもな活躍の舞台を同じ秋田書店の『少年チャンピオン』に移す。が、その前に小学館の『少年サンデー』において、『葉がくれマック』を発表したあと『ざ・色っぷる』の連載を開始したようだ(1970年10~11月)。

 だからこの時、『二日酔いダンディー』と『ざ・色っぷる』とで、連載を2本、執筆していた事になる。よくまあアイディアと体力が持ちこたえられたなあ? と、驚かずにはおれない。


付記:「ヒサ クニヒコ」について



 何で読んだか思い出せないのだけれど、もし僕の記憶が正しければ、吾妻ひでおは『二日酔いダンディー』の主人公をはじめとする、白目だけの(瞳が無い)キャラクターデザインでは、「ヒサ クニヒコ」の漫画の影響を受けていると語っていたことがあるようだ。

 「ヒサ クニヒコ」というと現在では恐竜研究家としてむしろ有名かもしれないのだが、1970年頃だと、大人向け作品専門の漫画家という位置づけになったのではないかと思う。

 作風というか絵柄の特徴を一言でいうなら、

「手塚治虫の影響を受けていない人」

といった印象があって(このことは当時の大人向けマンガ全般にあてはまったかも知れないのだが)、これも一因となってか異色の存在に感ぜられたようだ。

 1970年前後にあっては大人向けマンガというとその種類も分量も非常に少なく、実写映画を紙で作っているかのような構造を持つもの(こうした手法は日本国内だと手塚治虫が創始あるいは改良を行い、以後、日本における標準の仕様として世に普及定着していったと思える)は珍しく、主流は「1コマ漫画」だった(?)ような気がする。

 で、この「1コマ漫画」というのは、物語の展開を説明するだけの意味しか持たない絵(コマ)が存在しないだけに絵画性が強い。1枚の絵をじっくりながめる、というのがその読み方になるわけだ。

 その故か「ヒサ クニヒコ」は挿絵画家としても活躍しており、北杜夫の『さびしい王様』シリーズ単行本などでそうした仕事をこなしていた。自身の作品では『マンガ版 太平洋戦史』といった単行本(昭和47年8月24日1刷、画像はそのカバー)があって、これは「文春漫画賞受賞作品集」になっている。

 一定のページ数を持つ「ストーリー漫画」形式で発表された作品もあるのだろう、と思われるのだけれど、僕が当時に読めたのは月刊誌『COM』に掲載された『月の男』(1969年6月号)くらいで、これにはサリドマイド児が登場するなど、重い主題を扱う内容であったと記憶する。

 「大人向けマンガ」といったジャンルさえ、当節では、その内容を別にすれば少年少女向けマンガの延長線上にあると言えそうな様式のそれのみとなったかに見える。かつてはどこの新聞にも政治風刺の1コマ漫画が掲載されていたのだがこれもいつの間にかほぼ絶滅したようだ(?)。

 マンガ表現において前衛的な可能性は減少してきているのかも知れない……などと考えたら、悲観的に過ぎようか。