おわびとか

注:以下は吾妻マンガについてではなく、このサイトと、それをやってる僕についての、どうでもいいような雑談です。

(1)単行本『失踪日記』が2005年に発売され、驚いてブログを始めたのが当サイトの出発点というか、きっかけでしたけれど、ふと気づいてみたらもう既に、15年近くもの年月がたっているのでした。
 その約15年間に書き散らしてきた作文を読み返すと……。
 『吾妻ひでお作品のあらすじ』という名称なのだから、無色透明な文章で内容紹介だけカタログ的にまとめれば良さそうなものを、全然、できてませんね……。
 ごめんなさい。
 これ、かつて僕が『無気力プロ』へ出入りするようなタイプの奴だった事にたぶん一因があるのだろうと思います。


(2)読者の立場にとどまらず、踏み外して、自分でも何か創作したいと考え始めるような人間って、いろいろおかしい。
 他者の創作を手にとった時、どうしても、つい、「芸を盗もうとする」ような読み方になるのは、その奇癖(きへき)のひとつだと思う。
 まともなファンやマニアが、評論するような取り組み方で読むのとは、ちょっと違うのです。評論は、理路整然とまとめればその段階で作品というか、学術的な業績として成立するであろうと思うのですけれど、自分で何か創作しようとする奴らの最終目的地は、そこじゃないんですね。
 盗んだ芸を参考に、自分の作品を、何かしら形にして産み出す。そこなんです。だから、他者の創作を分析するような態度は評論マニアに近いかも知れないけれど、評論や研究それ自体には興味や関心が無い。
 逆に考えますと、博識な読者が評論は執筆しても、自らが何か創作はしない場合が多いとしたら、それは、眼高手低(がんこうしゅてい)で自制するだけが理由ではおそらくないのだろうなという気がします。


(3)「アール・ブリュット」とか「アウトサイダー・アート」とか、そういう言葉があるのですってね。
 才能や実力が全然足りず「無気力プロ」に居場所は無かった、僕はそういう男なのですけれど、それなのに、創作しないではいられない、みたいなところがあって。すっかり老いても、そういうところ、直らないんですよ! 自分でも、どうしようもない。さすがに、いつかプロの漫画家になりたいとか、若者が抱くそういった願望はもう完全に無くなりましたけど……。
 そういうヤツって、「アール・ブリュット」な人間ないしタイプなんじゃないかなと思う。
 損な宿命です、とほほ。でも、奇妙な点が見えたり、気付いたり、そういう事もあって。
 『裸の王様』という御伽話(おとぎばなし)は有名でしょうけれど、ああいう事、実際にあるだろうなと思うんです。込み入った知識を持たない立場から、ものの本質が見える場合もある、みたいな(そういうわけで僕の悪文をどうか許して下さい、と言おうとしている)。


(4)『みだれモコ』連載時、「物語には暗喩と明喩が必要である」という批判が届いたそうなのですけれど、
「出発点から誤謬(ごびゅう)があるんじゃない?」
と僕は感じたんですよ。
 たとえば……しばしば言われる事かと思うけれど……小説と物語を混同するのは認識の間違いですわな。物語は小説の一要素になり得るとしても、必須で不可欠の成分というわけではないはず。5W1Hだけを拾ってゆくように小説を読むのは、ぞんざいに過ぎるでしょう? 「以下のテキストの要旨を200字以内にまとめよ」みたいな、記述試験に解答するわけじゃないんですから……。
 また、物語には序破急や起承転結があらねばならぬとか、テーマが論じられていなければ空疎になっていけないとか、そうした方法論も定番かと思うのだけれど、これは極めて初歩的な目安であって、鉄則ではないはず。
 だって、もしもそうしたレギュレーション、成立に要求される諸条件と言ったものが本当に存在するとしたら、誰が創作しても同じ構造を持つ作品しか現れてこないでしょうし。また、それらが常に、誰の創作においても必須とされるなら、それを墨守(ぼくしゅ)して産まれてくる物はもはや工業製品か量産商品であって、創作としては自ら限界を設定して可能性を捨てることにつながる危険があるだろう気がする。


 コンペを開催して誰が1等賞かを決めたい、というような場合は仕方ないとして、「かくあらねばならぬ」とレギュレーションを規定する考え方は、自由と可能性の放棄であり否定だろうと思う。
 頭のいい人たちが奇妙な判断をする場合がある(と、僕には見える)理由のひとつは、自分で創作する立場になる経験が無いため、判断の誤りや欠缺(けんけつ)に気付きにくいという事なんじゃないかな……と思えるんですよ(くどいけど、そういうわけで僕の悪文をどうか許して下さい、と言おうとしている)。


(5)まあ、『みだれモコ』は、少年向け娯楽雑誌に掲載されたという、桎梏(しっこく)が、最初からあったんですけどね……。
 とにかく腹を満たしたいから、量があってメニューで一番安いラーメンを注文した、というお客に対し、全力を尽くして懐石料理を整えて差し出すような真似をしても、そのお客は感激するよりむしろ怒っちゃうんじゃないかと思う。へんな例えですけど。プロの作品づくりって、そういう制限をかかえているように僕は感じます。お客様は神様であり、絶対であり、このゆえに創作と表現の自由は、あまり無いというか。原稿料も印税も栄光も称賛も読者からの拍手もほとんど重要ではなく、ただひたすら、なによりも「創作したいと切望しているものを創作し表現したい」という願いが唯一かつ最優先のものになって自分でも抑制できないとしたら、これはやはり「アール・ブリュット」の領域へ踏み込むほかはないのではと思えます。


(6)評論に僕は関心が無い、と申しましたけれど、そもそも評論に客観的な価値とかは有り得るのだろうか、という疑念をぬぐえないんです(決して、無価値だというのではなくて、客観性が気になるのね)。
 能はユネスコ無形文化遺産に登録され、歌舞伎も同様に認めらていますけれど、かつて明治政府はこれらを「国家に益なき芸能」と評価してたんでしょ? (風俗改良政策として盆踊りや三味線などは禁止をきめたとかいうから、そこまで弾圧する予定だったのかも。)そんな酷評が覆(くつがえ)ったのは1879年に来日した元米国大統領のグラントがこれらを高く評価したからで、いわば門外漢の反応が歴史を変えたのだと言えそうな気がする。
 「そんな史実は日本人なら誰だって知っている」と、あなたはきっとおっしゃるでしょうけど、こうした事を考えると、僕のろくでもない作文にも何かの価値があるかもしれない気がして、それゆえ(以下略)。


 権威ある立場の有識者から、創作に対して賞が与えられるのとかを見ると、「どのように経済や国際交流で国益があるかを実利的な観点から判断しただけで、きっと芸術の奨励とかは毫末(ごうまつ)ほども念頭には無いんだろうな……」と考えてしまうんです。(決して、無価値だというのではなくて以下略。)
 この手の話は実例がいろいろ幾つも挙げられそうですけど、それはさておき。


(7)「創作する立場になった経験の有無」と同時に、もうひとつ気になるのは、「架空の世界へ出はいりする能力の有無」。
 幼かった頃、TV番組やマンガの登場人物になりきって「ごっこ遊び」を楽しんでいた記憶、ありませんか?
 信じ難いかも知れませんけど、大人になって自我を認識するようになっても、まだ、これが部分的に残ったまま喪失していないタイプって実在するんですよ――ええ、僕もそのひとりで……。
 自分でもこれ、ときおり薄気味悪いです。境界例と呼ばれる、紙一重の症状なのかなあと心配になって。


 それで江戸川乱歩が「現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと」とよく語っていたらしい事とか、すごく気になる。またバルザックが臨終に際して、自分の創作した架空の医者の名を呼んだらしい事に「錯乱していたわけではなくて、きっと、本気だったんだろうなあ」と考えたり。
 創作する側にいる人間にとって、創作というのは机の上での作業にとどまらないです。何と申しますか、現実と、架空と、両方の空間において、生きる事そのもので。それゆえ、創作せずには生きてゆけない、みたいな(なにしろ、世界の半分をうしなう事になってしまいますから)。あまりにも現実離れした設定の世界へさえ、何の違和感も困難も感じること無く、自由に出はいりし、そこで自分の五感をはたらかせる事ができる。
 『ハイパードール』のヒロインである、アンジェみたいな奴というのは、こういった意味では実在するんですよ……。


(8)かようにイカれた読み方を人様にすすめるわけにはいかないにしても、こういう変な立場だと得な面もあるようです。
 まともな読者には見えないであろう範囲までが見えたり、聞こえたり、感じ取れたりする事。
 僕らは普通、作品に触れた時、そこに自分の期待するものが無く、得られないと、その作品は「つまらない」と評価すると思う。
 『失踪日記』みたいにショッキングな経験が語られていないと、『うつうつひでお日記』とかは「つまらない」と不満を感じる。
 『不条理日記』みたいに高度なSF知識を要求される判じ物の要素がないと『銀河放浪』は食い足りなくて「つまらない」と感じたり。
 『みだれモコ』にメタファ(寓意=ぐうい)を期待してそれが発見できないと「つまらない」……等々。
 こうした反応って、作品に対する評価なんだろうか? と僕はときおり思うんです。作品を読んでいるのではなくて、そこに自分の要求するものが含有されているかどうか、その照らし合わせが行われているだけなんじゃないのだろうか? と。換言(かんげん)するなら、それは自身の好みと要求の表明であって、作品の評価や評論になってはいないんじゃなかろうか、と。


(9)イカれた読者の場合、こういった「つまらない」は、まず無いんです。
 創作された世界へ「出はいり」できる事、それ自体が楽しいからなのかもしれません。作品ごとに「好き」の濃度は異なりますけれど、「つまらない」は、ひとつも無い。
 だから、提灯(ちょうちん)記事を僕は書いてないです。
 読者が厳格な評価基準を固持している場合、それに反比例して、読者になることは「つまらなく」なるんじゃあるまいか? ときおり僕は、そんな気がするんです。むろん、何を選び、どのように読むのも、人それぞれの自由であるべきだと思うけれど。


(10)不埒(ふらち)なハナシを一席。
 『シャン・キャット』を読んでいて、おかしな疑問をおぼえた記憶があります。
「このヒロインはパンティはいてるんだろうか?」
 いくら半分「猫」でもなあ……ノーパンで表を歩いてるとは考えにくい。だから、はいてるんだろう。
 そのパンティには、尻尾を出すための穴は、開いてるんだろうか?
 見せるための下着でない限り、肌着としての裁断サイズなら、穴は必要だろうな。
 しかし、そんな、穴の開いたパンティなんて市販してるはずは絶対ない。
 だからきっと、3枚セット、みたいな安い普通の白いのを買ってきて、自分で針仕事して改造し、穴を作ってるんだろう。
 猫は、しょっちゅう眠るもの。たぶんシャンも、作業の途中でうたた寝してしまう可能性は高いはずだ。
 で、そこへ部屋の主である「番卜戸」が帰宅、シャンを見て、体調が悪いんじゃあるまいなと心配、近寄って彼女を見つめる。
 すると彼女の手元には、穴あき加工を施してある、いかがわしさ大爆発の新品パンティがあって、あわてた彼は何も見なかった事にしようと決めるけれど、まずいことにシャンは野生の勘で彼の気配に目をさましてしまい、そして……。


(11)あれれ、何の作文をしてるんでしたっけ、これ?

 あ、そうそう、で……。僕が作中世界へひょいと入りこみ、部屋へあげてもらえたら、そこはシャンが滞在していた当時の空間につながっていて、シャンは留守だったけれど部屋の隅に何か白いものが針や糸とかのそばに丸めてあって、拾い上げて見たらこれが穴あき加工したパンティで、手縫いのそれは強度がなく穴から少し破れており、それで着替えて外出したばかりらしく、シャンの体温がまだ残っていた――という経験談でした。
 残念なのはこの能力、持ち帰れるのが記憶だけで、物品は無理なんですよね。だから確認できた証拠品、その穴あきパンティは僕の手元に残ってなくて、誰にも信じてもらえないんです。
 以上、知性も教養もゼロな、おわび(?)でございました。おしまい。